親の体罰禁止の法律の是非

最近は児童虐待の胸糞悪くなる事件があり、報道で聞いてるだけでも震えるほどの怒りを覚えることがある。虐待は許されることではなく禁止し厳罰に処し若い命を社会一丸となって全力で守らねばならない。と、思うが親の体罰を法律で禁止しちゃうのはどうだろう。

暴行と体罰

暴行と体罰は全く別なもので、暴行に愛はない。体罰とはその名の通り「罰」であり、罰を受ける何らかの原因がある。暴行には正当なそれがない。虐待して逮捕された犯人は「しつけのためにやった」というが、その子がどのような大人になることを目指してのしつけか説明できるのだろうか?今、自分の気分を害したので暴力で屈服させただけなのにそれに「しつけ」という名を勝手につけただけではないか?児童虐待で逮捕されているのは体罰ではなく暴行・暴力である。子供の将来を考えていたら将来が無くなるような凄惨な暴行などするはずがない。将来のために正すべきを正す。そのための手段のひとつとして体罰があった。体罰には丁寧な説教とアフターケアも欠かせない。なぜ?何が悪いのか?を教えること、その内容が世間の常識と一致すること。将来社会に出る。その時に無用な衝突を避けられるよう、社会から孤立しないように願いを込めて。

体罰のありがたさ

炎上しそうな見出しをつけてみたが、世間で言われるような体罰擁護ではない。今、大人になった私が思うのは仕事でなにか大失敗したときに、げんこつ一発で許されて後始末を他の大人たちがしてくれるならぜひそうして頂きたい。子供のころには思いもしなかったが、適切な体罰とは実は大サービスだったのだ。分かりやすく短時間で片がつく罰としての適切な体罰に私は価値を感じる。罪と罰のけじめがつき逆に気持ちが救われる。

人を殴ってはいけません。

傷害罪・暴行罪。人を殴れば罪になる。殺してしまえば殺人罪。決して許されるものではないのだが、格闘技の試合はどうだろうか?私自身はこっそり全日本選手権と名の付く格闘技の大会で3位入賞経験があるのだが、対戦相手に恨みなど全くない。それどころか試合が終わると対戦相手と打ち解けることができる。不思議なことだ。殴られたのに実にすがすがしい。もちろん、「お前は何を言っているのか?」思う読者もいるだろう。私が言いたいことは「殴られた」という事実と受け止め方の問題である。「人を殴ってはいけません。」というのはごもっともだ。殴られれば「やってはいけないことをされた!」以外の解釈はない。しかし、格闘技のようにルールに則って行使された場合にはなんとも思わない。「まぁ、殴られますわ」程度だ。悪いことをすれば罰を受ける。そのようなルールのある状況であれば殴られても容認できる。「ルール」を守るが重要なことで、格闘技の試合でも相手がナイフなど持ち出せば許されるものではない。ルール違反の問題を超え暴行・傷害・殺人の罪を問われる。

ルール作り

罪と罰はセットである。罪は犯しても罰せられたくない。罰した相手を恨む。何も改めない。となれば反社会的な人格になってしまうこともあるだろう。個人的には子供が納得できる状況(罰せられるだけの罪を犯した)でルールの範囲内(服従させる目的でも殺傷目的ではない)の罰を受けるのが、最も分かりやすいと思うだが、法がそれを許さないことになったので、何か有効な罰が必要になる。罪は犯す(故意過失問わず)。罰は受けない。それでは社会で通用しない。大人の社会では逮捕ってわりと身近な話だ。子供は社会に受け入れられるように育てる。犯罪者にならないように育てる。

ムカデにかまれた話

少年のころ、学校帰りにムカデを見つけた。ムカデで遊んでいるうちにムカデに噛まれた。この痛みがとんでもない。今でも人生で痛かったランキングで上位に君臨する。もう二度とムカデにちょっかいは出すまいと思っている。いわば、ムカデから体罰を受けて危険を避けることを学んだのだ。動物も毒のあるものは襲わないとか、トゲのある植物は食べないとか、痛み・苦しみとセットで学ぶようにできている。小さな子が火に触ろうとしたらどうだろう?あぶない!とひっぱたく。「火」と「ひっぱたかれる」が関連付けられ火を警戒するようになるのではないか?火がどれほど熱くどれほど危険かを知らなくても、「ひっぱたかれるから避ける」それで良いのではないか?


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