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いじめって何だ?を考える。

非常にデリケートなテーマであり、現実に現在進行形で苦しんでおられる方がいることを承知の上で論じてみようと思います。あまり聞いたことのない理論を展開します。私はかつてアメブロでジャンルランキング100位内に入ってました(全然違う名前で)ので、知ってる人もいるかも知れない私のオリジナル学問「本能論」。

良い悪いではなくそのようにできている?

古今東西性別も関係なくず~~~~~っとあるものは本能としてDNAに刻まれているという考え方が私の本能論。大体のことはこれで片付く。さかなくんの著書では魚の世界にもいじめはあると書いてあった。つまり、人間だけでなく動物の世界にもいじめが存在するのだ。これは生き物に共通する本能であり何か必要性があるのだろうと言うところから考察スタート。DNAに刻まれたプログラムの問題点とは何か。

社会と関わるという事

皆と違うものは差別される。いや、違うという事を指摘される。指摘するようにできているし、それを気にするようにもできている。なぜか?いつの時代も足並みを乱すものはその社会を危険に晒すことになる。そうなれば、違うことは伝えなければならないし、その言い方・伝え方もとげとげしくなる。指摘されたことを不快に感じなければ改善もなく、改善しなければ自分の居場所がなくなる。所属する社会を守るためには必要なプログラムなのだが、危険な香りがしてこないだろうか?自分は正しいのか?その確認のためには正しくない誰かが必要だし、自分が正しい側にいるためには多くの仲間が必要になる。魚はそこまでの知能がないが人間の知能が裏目に出る。いじめの構図に近づいてきた。

いじめられる側の問題

私が考えるいじめられる側の問題とは、いじめられている個人の問題ではなく、これもDNAに刻まれた社会的な動物全体の問題。プログラムのミスと言える。社会を守るためには異端は排除しなければならないし、自分は異端として排除されたくないとなれば代わりの誰かが犠牲になる。選ばれた方はたまったものではない。言いがかりがエスカレートしただけで本人にはほとんど落ち度がない。いじめと魔女裁判とは本質的には同じこと。このプログラムの欠点とは「個人の弱さ」を考慮していない点なのだ。いじめはする側もされる側も「弱い」ことが原因で起こってしまう。悲しいことだ。もし本当に神様が動物(人間も)を作ったとするならば人間の心は神様でもどうしようもなかったという事になる。それくらい難しい問題なのだ。

いじめる側の問題

動物の世界であれば、いじめる側もいじめられる側もどっちも悪くない。プログラムに従った結果にすぎない。人間の場合は「思考」「感情」が悪さをする。DNAに刻まれたプログラムを無意識の感情が恐れている。その結果、精神的に弱いもの・未熟なものはいじめる側に回ってしまう。無意識が自分を守ろうとした結果、誰かを犠牲にした。本能論で考えると異端は排除する必要があるため、いじめもどんどんエスカレートする。死に追いやることもあるが、まったく反省のない加害者がいるのも加害者の本能は異端の排除を認めているからだろう。

いじめを無くすためにできること

DNAにプログラムされたことの暴走がいじめであると考えるなら、暴走を食い止める以外に方法はない。「いじめはよくない」「いじめはやめよう」とは誰でも頭では理解しているが、実際のところはどうだろうか?テレビでも「いじり」と称して人を馬鹿にするシーンを楽しく見ていないだろうか?あれはいじめではないと思うが、いじめを誘発すると思う。

なぜいじめではないかと言えば、これも本能論で説明がつく。お笑い芸人は「違う事」を認識したうえで、相手の「異端を指摘したい本能」充足のための道具として使い、それで報酬を得ている。見合った報酬が得られるならば彼らにとっては報酬の対価でしかない。しかし、一般社会では通用しない。いじられる側にとってはDNAに刻み付けられた「排除される恐怖」に直結している。軽減するためには芸人のように違いを売り物にするしかないのだが、見合った報酬などないので心が壊れていく。

いじめを無くすためには人類のメンタルを社会を必要としないくらい超強化するしかない。しかし、それは無理なので軽減するにはどうしようか?がテーマになるだろう。「他者を認めることで自分が認められる」そのことが理解できれば、生贄に差し出す誰かは必要ない。しかし、他者を認めることにより自分が排除される恐怖がDNAに刻まれている以上それも難しい。

「強さ」の問題

DNAに刻まれた「異端排除プログラム」にはそれが「人の弱さを考慮していない」という致命的なバグがあり、それがいじめを生み出す。「悪い」と認識すれば集団で叩く叩く叩く!ネットでの炎上もそれだ。大人も子供も性別も社会的地位も関係ない。誰でも持ってる本能だ。仕方がない。でも「人間として」はどうだろうか。人間の弱さはなんとなく分かるが人間の強さって難しいなぁ。いじめられる側が指摘された自分の問題と向き合えるか?対処の必要のあることか?単なる言いがかりなのか?いじめなのか?助言なのか?責められている状況でそれらを冷静に判断できるだけの強さって相当なものだ。個人に求めるのは酷すぎる。

いじめは犯罪です。法的に問題ありです。

違いの指摘、助言、制裁はある程度必要なものだ。社会を維持するためには自分勝手ばかりでは許されないのでルールを知らせなければならない。ルール違反指摘し、助言し、場合によっては制裁(刑務所など)される。これらは社会の秩序維持・安全維持のために必要であると社会構成員の多くが認識しており、頼りにもしている。しかし、いじめの場合は弱者が仕立て上げた生贄に対する過剰で不当な制裁であり社会はそれを望まない。全くの別物。

法は自力救済は認めていない。法は私刑を認めていない。いじめは違法行為であり正当化はできない。

そのような行為に対しては間違っていることを指摘し、助言し、場合によっては制裁が必要になるが、その方法は社会が(法が)認めたものに限られる。なんだかんだ言っても個人の弱さによる暴走を防ぐには法の力が欠かせない。もし本当に神様というものがいるのなら、なぜ人間の弱さを考慮しなかったのか?その答えは「法」だろうか?感情がからむと暴走するから「法」で縛れ。そういう事だろうか・・・。


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