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絶対肯定

 いま、企業の保健師が大変らしい。新卒入社後の若者たちが、どんどん病んでいくのだ、という。
 理由はもちろんテレワークである。入社したのに出社しない。いつもと変わらぬ自宅の風景のなか、PCモニタのなかだけで業務が進行する。モニタのなかの先輩方も右往左往。そりゃあ、誰だって、気が変になるというものだろう。

 たとえばそこに禅があると、全然違う世界がひらけるのに、と、半ば本気で、思ってみたりもする。

 苦とはなにか。いまここにある自分が、本来あるべき自分ではない、という自己否定である。
 人間は、発達の過程で、自己の否定を学んでいく。3歳前後では、生理的欲求を否定することを覚える。10歳頃までには、衝動を否定する。思春期には自己の立脚点である親の世界観を否定する。
 ありのままでいては、社会の人たちと協調していくことはできないのだと、学んでいく。

 それは、幸福を得るための必然的過程である。
 人間の幸福には、他者との協調による関係性の構築が欠かせない。そしてそれは、ありのままの自分に留まっているだけでは、得られない。
 思春期、親を否定することは、とても象徴的かつ大切な契機だ。無意識に前提としていた根本的なモラルの基盤に、疑いを差し挟む。それは、自分なりに認知した社会のありようをもとに、世界観を再構築するための行為である。学校の先生に反発したりするのも、その延長にある。
 具体的に、どの程度荒れるのか、あるいは表面的に適応しちゃうのかは、その人の本来の資質による。

 このように、自己や自己が属する社会的単位を否定し、試行錯誤し、世界観を再構築する過程は、大人になる=社会性を身につけて、生産性を発揮する主体となるために、必須のことである。

 新卒入社やそこでの業務体験もまた、良し悪しはさておき、実態としては、現代日本社会における最も重要な通過儀礼である。
 経済システムに本格的に接続されることでぶつかる、様々な壁。そうした壁を通して大人になっていくわけだが、その壁がオンライン化され、バーチャルリアリティ感満載となってしまうと、ぶつかりたくても実感が湧かない。

 ここからが、禅の出番なのである。

 禅とはなにか。数々の苦を経験したその先に、絶対肯定を見出すことである。自己否定だけでは、真の幸福は得られないのである。

 そのメソッドは、教科書やマニュアルで書き表すことはできない。そこにいたる前に横たわる問題は、その人固有だからだ。
 まず第一に、苦とそれに伴う思考量を十分に蓄積しなければ、話は始まらない。そして必要なときに必要な機縁を得て、自ら理解しなければならない。自らの内に、肯定の源泉を発見しなければならない。すでにそれがあったのだということを、知らなければならない。

 そういうことを教えられる人が少ないことは、禅の問答録のなかでも度々指摘されてきたことだ。確かにその通りだし、仕方がない部分はある。

 最後の最後に、急に俗っぽいことを言ってしまうのだが、例えばYouTubeやclubhouseで、気づきの切っ掛けを提供できはしないものか、とか、ふと、思ってみたりもする。

 誰か一緒にやってくれないか。

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