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なぜポエムはポエムであり、詩は詩なのか。

ポエムを和訳すると、詩だという。

詩を英訳するとポエムだという。

しかしポエムは詩ではないし、詩はポエムではない。

ポエムと詩は、散文でないという一点においてのみ共通しているが、全然違う。全然違うのに、じゃあどこが違うのかといわれると、ここがこうこうこうとは説明できない。両者は連続的に繋がっているが、どこかに境界線が間違いなくある。

詩を目指してポエムになることは、なくはない。ポエムを目指して詩になることは、まず、ない。

ここで急に、ずばりと言い切ってしまうと、ポエムとは、未成熟ということなのである。

未成熟を未成熟として恥じない態度。

未成熟にむしろ価値を置く文化。

それは、アイドルにはポエムが似合うが、女優はポエムを決して書かないことからも明らかだ。若く未熟な女優が詩のつもりでポエムを書いてしまうことがある。フォロワーがそこに詩的なものを感じてしまうことがある。それはわりと深刻な事態である。

ひと頃、不動産広告のポエム化への批評が小さなブームとなったことがある。確かに、アイキャッチに使われる短文は、ポエムになる危険を帯びがちだ。ポエムリスク。しかしそもそも、不動産を買おうとしている人間とは、夢を見たい人間なのである。夢を見たい人間にポエムを提供するというのは、理にかなっていると言えなくもない。

ちなみに俳句も短歌も、分類上は、詩に含まれるわけだが、俳句はそのありかたからしてまず詩的である。短歌は油断するとポエムになりがちだ。特に、未熟な短歌とは、そのほとんどがポエムと言っても差し支えない。

では、未熟な俳句はポエムになりがちなのかというと、あんまりそんなことはない。それは、ただ出来の悪い俳句である。

ポエムっぽい俳句があったとしたら、それはむしろ俳句としてはよく出来ている可能性がある。

では、自由律俳句はどうなんだ。どうなんだと言われても困るが、確かに言われてみたら、ポエムっぽい自由律俳句とは成立しうるのだろうか。

おそらくそれは、単に、短いポエムである。

ポエムとは詩であり、詩はポエムである。しかし、ポエムはあくまでポエムであり詩ではなく、詩は永遠にポエムではない。そんなことで悩む民族は、我が国以外にないのではないか。日本におけるポエム的な表現は、英語話者の世界に存在するのだろうか。

そう考えると、希少価値というか、珍しい現象であるという意味において、ポエムはポエムで、まあいいかという気もしてくる。しかしやはり、いい大人がポエムを書くべきではない。まあ、本格的な現代詩を書くのも妙な話だ。その昔、辞世を詠む風習があったりしたわけだが、詩を書こうとするとポエムになってしまう現今の情勢化において、内面を表現する適切な手段を持たないというのは、ある種の表現の危機とも言える。カラオケでポップソングを絶唱することで、それを埋め合わせているのかもしれない。

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