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レッスン3/4 目指すは菩薩

心の汚れ、つまり、自己嫌悪や罪悪感を取り除く。不安が空回りを呼び、空回りが不安を誘う悪循環を断つ。とりあえず、眠れるようになる。これが、何はなくともやった方が良い第一段階だ。

次に、蓄積していた疲労に気付いて、今度はそれをゆっくりと解消するために、一日、一週間、一ヶ月というサイクルをリズム感良く過ごすようにする。これが、第二の段階。

心身を整えたあと、向かっていく先は、プラスマイナスゼロ地点へ戻るだけでも良いのだけれど、せっかくなので、恢復するだけでなく、むしろそこを通り越して、以前にも増して発展していくことを目指したい。大きくバランスを崩したときは、より良い時間を感じるための転機でもある。

例えばこれはある女性の友人に教えてもらった作品だ。ぱっと見は通俗で薄っぺらい雰囲気もあるが、読んでみると、なかなかどうして、大変に惹き込まれる話だった。

実話だったか、実話をもとにしたフィクションだったか。あらすじは、離婚し、家も貯金も元夫に手渡し、ダイエットを忘れてイタリアで好きなだけピザを食べたり、どこぞで恋愛したり、インドでヨガをやったりして、グールーにも恵まれたりして、新しい友達もできて…という話。最終的にはこの本がベストセラーになり、新たな理想のパートナーも得ることになった。多分、そんな話だった気がする。

そこまで劇的なアメリカンドリームでなくとも良いのだが、そういうV字回復的な展開は、多くの例がある。

自分の場合は、この本の主人公みたいに全てを手放したり、インドに突撃したりはできなかった。かわりに、本を読んで読んで読みまくった。体調崩したとき、人はわりとヨガとかマインドフルネスだとか、山に行ったりとかそちら方面に行きがちで、ベタといえばベタかもしれないけど、鍵はどうしても仏教にあるはずだと、ゴーストが囁いてしょうがないので、仏教哲学系の勉強は随分した。

まずは入門だよねということで、例えばこんな本を読んでみるのも悪くない。

「秘密曼荼羅十住心論」の十段階というものがある。
第1段階:異生羝羊心(いしょうていようしん)
 …教乗起因・動物的意識(迷妾の段階・倫理以前、性食をむさぼる)
第2段階:愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
 …人乗、儒教的道徳(他者への倫理発生・人間と国家を知る)
第3段階:嬰童無畏心(ようどうむいしん)
 …天乗、道教、インド哲学(宗教的自覚の発生、天上界と絶対性を知る)
第4段階:唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
 …声聞乗(固体の実在を否定してやっと無我を知る)

とまあ、こんな感じで修行の発展段階を十に分けて定義してあるのだが、なかなかこうして振り返ってみると、味わい深い。

例えば自分の場合、倒れる前は、主観的にはそれなりに利他的に、社会人として、親として、夫として、ちゃんとやってるつもりだったが、本当にそうだっただろうか?という振り返りのきっかけとなった。なんだかんだ、名誉欲とか金銭欲とかにまっしぐらで、異生羝羊心状態ではなかったか?と。段階が進むと、正しく身を処すことを知るだけでなく、そこに喜びを感じるようにもなるらしい。そういう概念があるということを知るだけでも、意識の持ちようが全然違ってきたりする。

しかし仏教とひと口に言っても、昨今、いわゆるお寺のお坊さんの説教みたいな世界から、アカデミアの世界における哲学としての仏教、はたまた新興宗教、はたまた欧米風のオシャレ系マインドフルネス&ヨガ、はたまた書とか水墨画的な禅の世界、はたまたビジネスエリート達の週末座禅、まだまだあるぞ、書店に並ぶ自己啓発の類、サクッと理解しよう般若心経みたいなノウハウ本、高齢者向けの終活指南書などなど、あまりに多種多様だ。

教えられたり語られている内容も実に混沌としていて、輪廻はあると言ったり言わなかったり、欲を断ち切れ的なことを言ったり言わなかったり、宗教色を出したり出さなかったり、現世利益を打ち出したり、出さなかったり、出家はマストという人もいるし、在家もなかなかという意見もある。実に色々な仏教がある。

仏さんも苦笑いしているかもしれない。

状況が混沌としているときは源流を訪ねるのが一番だ。偶然出会ったのがこちら。仏教の解説本ではないんだけど。世界史的な仏教の発祥から興隆し、いかにして東方に伝播したかが簡潔にして明瞭に解説されている章がある。世間に流布する仏教解説のなかでも、最高峰の視界が拓けること間違いなしの内容だ。

世界史、文明史というパースペクティブで考えると、実は仏教だけを考えれば良いのではなくて、なぜ、ナザレのイエスや孔丘といった大思想家が同時多発的に生まれたのか、なぜ彼らは口伝を残し、数世代後の人々が教典化し組織化され、権力と近づきまた解体されていくのか、みたいな視点が必要だとわかる。

というわけで、仏教からは少しだけ脱線するが、この本は大変に面白い。

ことほどさように、仏教の教えを訪ねようとすると、一度、出来る限り視野を広げなければ、行き当たりばったりの仏教観というか、何をどう読み、考え、信じたら良いのかもわからない感じがするのであった。

そんなこんなの思いが去来しつつ、なんだかんだで、仏教といえば、禅である。鈴木大拙とか井筒俊彦とか、ビッグネームの本もたくさんあるけれど、やっぱりかなり難解なのであった。

初めて読んだのは浪人時代だった。いまだにこうして読み返したりするが、いまだにわかった気があんまりしない。

一方で、例えばこの「不動心」は、うまいこと日常的な感覚と禅の世界観を接続してくれる本だ。

ちょっとこれだと食い足りないと思ったら、いよいよ禅問答にぶつかっていく手もある。

かなりハードコアな禅問答についての考察の書である。数年前に読んで、全然歯が立たなかったのだけど、再読して、ちょっと太刀打ちでき始めた自分に気付いたりする。

ここでもう少し掘り下げるならばやはり、ナーガルジュナの中論である。

このあたりで、もはや何を読んでるのか、自分でもよくわからなくなってくるのだが、それでもとにかく、なんしか幅広く、意味はわかってもわからなくても、読み続けることに意味があるように感じてくる。

そうこうしているうちに、さらなるハードコアな仏教書との出会いがやってきた。テーマはずばり「悟り」だ。世の中に、仏教や禅についての解説本はあまたあるが、どれひとつとして、悟りについては触れない。そこにあえて大上段から切り込む、極めて意欲的な一冊だ。

とまあ、初心者向けからハードコアなものまで、幅広く読んでわかったのは、とにかく仏教が問題にするのは「苦」というやつなんだという、確信めいた考えが舞い降りてきたのだった。

「苦」とはなにか。それは、思い通りにならないということである。

様々な時代や場所で、様々な天才達が、「苦」について、考え、語り、教え、論争してきた。その歴史自体が壮麗な絵巻物のようでもある。あまりに壮大過ぎて、手も足も出なそうな気がする。しかし、惑わされることはない。とにかくテーマは「苦」しかない。それで良いのだ。それは、この世に生を受けた人間誰もが背負わざるを得ない普遍的テーマなのである。

自分の「苦」を見つめる。他者の「苦」を考える。それらを取り除くために願を立てる。自らの呼吸を、あるいは生き様を整え、律する。自らを救い、他者を救う。そういう生き方に目覚めた人間のことを、菩薩と呼ぶ。

だとしたら、自分にも、菩薩を志す生き方があってもいいんじゃないか、とかね。それぐらいパンクな発想ができて、ようやく仏教の入り口に立てるんじゃないかなと、わりと本気で思っている。



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