「戦う姫、働く少女」批判
「戦う姫、働く少女」は、基本的には、かなり興味深く読んだのだ。かなり面白かった。しかし、時々あらわれるフェミニスト的文法に、かなり苦々しいものを感じた。
その苦々しさの内実を、掘り下げて考えてみたい。
トップバッターの「アナ雪」批評については、なるほどと思うことのほうが多かった。
たぶん、以下の要約で、大体の論旨は捉えられていると思っている。
ちなみに、本書で語られるフェミニズムの歴史を、以下、ざっくりと要約しておく。
おそらく著者は、第三波フェミニズムを一定程度肯定的に捉えていつつも、それでいいのか、と、思っている。
そうした視点、問題提起には、非常に共感する。
では、どこが苦々しいのか。
最大の象徴的表現が「小泉政権が、郵政民営化により、新自由主義を完成させた」のくだりである。
なんだ、その極論は。
日本社会とは、個人の自主独立という概念において、そもそも近代の導入に失敗し続けている社会である。政治経済の仕組みやルールを、どこまでいじくったところで、この国では、新自由主義は、永遠に訪れることはない。
訪れていいものでもない。
いまあるのは、新自由主義風のファッション、スタイル、ポーズ、建前である。そしてそれらはしばしば進歩的で開明的であるかのような扱いを受ける。そのファッションを着こなした人間が、社会的、経済的ヒーロー(またはアンチヒーロー)として持て囃される。
しかしその内実は、人間の、独善的で怠惰で、自己中心的な、手前勝手な「弱さ」の部分を、ダークサイドテクノロジーによってhackした、ネオ封建主義とでも言うべきものなのである。
こういうことを扱う手つきが雑なものだから、「魔女の宅急便のキキは、やりがい搾取だ!」みたいな暴論が飛び出してくるのである。
たぶん、この本を読んで、心底腹が立ったのは、このくだりである。
本書中盤における著者の主張を、ざっくりと要約すると、以下の通りである。
パン屋=フォーディズム、という発想の飛躍は、なんというか、苦々しいを超えて、呆れるしかない。
なにを言ってるんだ、この著者は。
魔女の宅急便で語られる「血」の概念は、自分の持って生まれた能力を、いかに社会に結びつけ、暮らしていくか、ということを語ろうとしているだけである。
パン屋の主人は、普段は確かに寡黙だし無愛想だが、彼は彼の作品を通して、精一杯の笑顔を、社会に対して向けている。
キキ=やりがい搾取、みたいな図式を作っているのを見ると、この人、社会がわかってないな、ということが、一目瞭然となってしまう。そこに、ガッカリしてしまう。
社会を見るフレームとして、一定程度、有効なものを示しているし、問題提起の方向性には、共感するのだ。しかし、こうした部分で馬脚をあらわしてしまうのは、まったくもって、勿体無い限りである。
結局のところ、あなたがたは、好きな映画やドラマを眺めて、言語遊戯に明け暮れていたいだけなのでしょう?と、思わざるを得ない。
苦々しい限りである。
本書終盤は、まぁ、端的に言って、漫画版ナウシカを礼賛したくて書いているだけのものに見える。部分的には同意できる内容もあるが、こういう形で本にするほどの内容とは思えない。
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