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続・映画「セッション」のこと

 なにをいまさら中途半端に昔話題になった映画のことを書いているのかというと、Primeでたまたま観たからで、さほどの深い意味はない。
 肩と首が痛くてどうにもならなくて、仕事にならないから、なんか映画でも観ようか、できれば音楽とかバンドものが良いなぁと思った、その程度の動機だった。ちょっと話題になった記憶はあったが、中身についての事前知識はほぼゼロ。

 で、観てみて、随分と後味が悪くて、少しネットを見てみたら以下のエントリを発見し、当時の雰囲気を窺い知ることができた。

 上記は当時の町山智浩と菊地成孔の間であった論争のいち部分。(三回に渡って書かれる文章の真ん中)
 この支離滅裂で奇怪な脚本の映画を称賛する人が、結構いる。不思議である。その不思議な動機がどこにあるのか。

 町山のこの文章がその根本的な要因を正確に語っている気がする。

もし音楽で主人公の怒りが本当に浄化される映画になっていたら、もっと感動的でカタルシスのある一般的な映画になっていただろうが、こんな暗く凶暴なインパクトは残らなかっただろう。実際、『セッション』を観終わった後、ヤクザ映画を観た後みたいな暴力的な興奮に震えた。『マッドマックス』一作目でずっと憎悪を貯めこまされた最後に皆殺しで復讐した後のような。だから菊地さんは『セッション』を「危険ドラッグ」と呼んだのだろう。

 菊地がこの映画を酷評したのは、この「暴力的な興奮」と「音楽」をリンクさせたことにあるのだろう。同感だ。良い音楽に緊張感は必須だが、それは目的ではない。

 絵もかっこよかったし、いいセリフもあったんだけど。

 当時の町山の批評を読むと、不景気な映画業界のなかで、キラリとひかる小品だったからこそ持ち上げた部分が相当にあったように見える。そういう業界の都合のもとで下駄を履かせてもらっての高評価だったのだろう。まぁ、気持ちはわからなくもないけど。

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