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75.(19/365) 点穴を掘る。

昨年たまたま知り合いの伝手で知った映画「杜人(もりびと)〜環境再生医 矢野智徳の挑戦」を見た。

公式サイトからあらすじを引用しておく。

ある人は「地球の医者」と呼び、ある人は「ナウシカのよう」と言う。
人間よりも自然に従う風変わりな造園家に3年間密着。
全国で頻発する豪雨災害は本当に「天災」なのか?
風のように草を刈り、イノシシのように大地を掘って
環境問題の根幹に風穴をあける奇跡のドキュメンタリー。
https://lingkaranfilms.com

コンクリートなど人間の過干渉によって空気や水の流れが堰き止められ、日本のあちこちで自然が呼吸できない状態になっていると矢野さんは言う。

全てが関わり合って一つの環境になっているから、無呼吸状態が長く続くと、その歪みがさまざまな形で現れる。
全国各地で土砂崩れなどのニュースが流れるたび、この映画を思い出す。

そして、ぼくはこの映画を見ながら、ずっと学校や職員室のことを考えていた。
学校に勤めているからこそ肌で感じる閉塞感や無力感、苛立ち。
そうした感情たちが、まさにこの自然の無呼吸状態と相似に思えてならない。

目の前の業務の忙しさに溺れて、呼吸がうまくできない。
ぼくもそう感じることが少なくないが、周りの同僚に話を聞いても、同じ感情を抱いていることが多い。
そうした感情を抱いている者たちが、学校という環境を作る一要素になっているから、自然、学校全体は閉塞感に包まれていくし、その影響は子どもたちにじわじわと向かう。

ある日突然土砂崩れが起こるように、学校でも、呼吸に喘ぐ者たちの感情が臨界点に達した時、大きな亀裂が入る。
しかし、それはある日突然やってくるように見えているだけで、日々確実に臨界点へと歩みを進めている。

矢野さんは、映画の中でそんな自然に対して、「点穴を掘る」という活動を通して、森を、自然を再生しようと試み続けていた。
流れが滞っているから今の状況が生み出されているところに目をつけ、移植ごてなどで、地面に穴を掘り、空気や水が再び森の中を流れるように、その通り道を整えるのだ。

ああ、これだ。
見た時に、胸に刺さる感覚があった。
組織開発の文脈と点穴を掘る行為がリンクした。

職員室でも、クラスでも、学校でも、関わる人たちがちゃんと呼吸できるように、点穴を掘ることこそ、必要なことだと思った。
教員がいて,子どもたちがいて、校舎があって、時間割があって…ぼくらは、学校というものを、まるでレゴブロックのように、小さなブロックが積み上がってできていると思いがちだ。
部分と全体は別々のもので、「部分を足し算していくと全体になる」とつい考えてしまう。
でも、本当はきっとブロックを組み合わせ、積み重ねたようなものではない。
部分と全体はその境目がなく、一つの全体。
部分は全体だし,全体は部分だし、そもそも不可分。
だから当然影響を与え合う。
影響を与え合うというのは、絶望であり、同時に希望でもある。

だから点穴を掘るんだ。
学校に関わる誰もが無理なく呼吸できるように。
クラスや職員室、学校を一つの生態系と見た時、その全体に空気と水が絶えず流れるように。

ぼくが、これまでやってきたことはこれだったのか、という感覚がある。
でも、言語化せずに無意識にやっていたに近い。
それが今回言語化できて、改めて自分のやりたいことは点穴を掘り続けることなんだと思った。

小さくてもいい。
小さいのがいい。
部分は全体で、全体は部分。
全てはつながり合っている。
だから、やっていることに無駄なことなんてない。

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