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97.(41/365) 奈良女参観記①

昨日、奈良女子大付属小学校(以下、奈良女)の学習発表会に行ってきた。
たまたま担任している子の保護者の方が奈良女で教員をされているということで、お誘いいただいた。
この日は、5年生の一クラスにべったり密着して一日を過ごした。
ここでは、一日参観して自分が見たこと、考えたことを記録していく。
網羅的にではなく、一晩たっても、自分の中で反芻してしまうことを中心に書こうと思う。
まず、普段の他校の研究授業などでは見ることができない「朝の会」が見られたのがとても印象深かった。
そして、その朝の会が、実はとても重要だったという事は後になってじわじわわかってくる。
この日の朝の会では、担当の児童が20分の時間を丸々渡され、それを自分の発表にあてていた。
発表は「このサンリオキャラを知っていますか?」から始まった。
「ああ、自分の好きなものの発表かな。」と何となく思って見ていたら、そこから話は「カワイイをどうやって作るのか?」という話に移っていった。
好きなものの紹介で終わらない。
そして、サンリオのキャラから「カワイイ」の要素を抜き出し、その要素を使って、みんなにも「オリジナルのカワイイをつくってほしい」と担当の児童がみんなに投げかける。
途中で、朝の会であることを忘れていた。
その時間が、もうすでに学びになっていたから。
いや、違うか。
そもそも、日々の中のあらゆることが学びの中に内包されていると言った方が近い。
全ては学びにつながるし、それこそが楽しいということが、先生も子どもたちもとても深いところで実感として分かっている感じ。
これって、きっと毎日毎日「あらゆることが学びにつながる」ということを体験し続けてきたからこそのこの雰囲気なんじゃないか、そう思った。
先生も子どもたちも本当に息をするように毎分毎秒学んでいると感じた。
朝の会は後半に移り、できたカワイイをみんなでシェアして、楽しむ。
ずっとなごやかな時間が続く。
この時間の参観者は非常に多かった。
会場となった造形室がホワイトボード前を除いて、四方を参観者で埋め尽くされたと言っても過言ではないぐらい。
でも、そんなある種非日常の中で、子どもたちは日常のようにふるまっていた。
いくら、付属小で学校公開のようなものに慣れている側面はゼロではないとはいえ、ここまで平常心で居られるものかな?と。
でも、その子どもたちのおそらく日常と変わらないであろうふるまいは、「聴き合う」文化に支えられているのではないかということが見えてくる。
徹底的に聴いてくれる友達や先生がいて、そのことが一人一人の心理的安全性を高めていた。
だから、大人が大勢見に来て自分たちを取り囲んでも、大丈夫と思える。
「ここには、いつものようにちゃんと聞いてくれる友達や先生がいる。」それが、確信レベルで子どもたちに染み込んでいる。
そして、子どもたちだけではなく、そういう非日常の場ですら、日常と変わらない場に、見えない・見えにくいところで整えてくれる先生の存在。
この二つがうまくかみ合って、この朝の会の時間を過ごしているんじゃないか、そう思った。
朝の会は、その20分をクラスの子どもたちだけでほぼ進めてしまった。
けれど、さっきも言ったように、場の雰囲気や、子どもたちの一挙手一投足が常に「見えている」(あえて「見ている」ではないことは、また次回にでも。)先生の存在感が逆に僕の中では大きく感じられた。
それは、先生が場をコントロールしているということとは違う。
先生の姿は、この朝の会の20分の中で、本当にわずかしか見えなかった。
けれど、じっくり目を凝らすと、そこかしこに先生のまなざしが息づいているようなそんな感じ。
そして、朝の会を担当した児童。
追求を続けると、ここまで豊かに語れるものが自分の中にできるのか、ということを目の当たりにした。
その姿は、まさにジェネレーターそのものだと思った。
軽い気持ちで「早く到着できたし、朝の会も見れるから見に行こう。」ぐらいの軽い気持ちで行ったら、のっけから目の覚めるものを見せてもらった。
そして、朝の会から、ぬるっと1時間目の授業「かがやく」へ入っていった。
この「ぬるっと」ってのがめちゃくちゃ大事に感じた。
子どもたちの中で学びが途切れていない。
ぶつ切りの45分×何時間という認識で成り立っていない。
朝の会も、1時間目も、同じ「学び」、ただそれだけ。
そう言ってのけてしまいそうなほど、その姿が自然だと思った。

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