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39.ググればなんでもわかる?

久々に少し休日出勤をした。
学校へ行くと、同僚が2人来ていた。
それぞれに仕事をしながら、ちょっと集中が切れたり、休憩したりのタイミングで雑談をした。
その中で話したこと。

「ググれば何でもわかる」
そんな言葉をしばらく前から頻繁に聞くようになった。
確かに便利な世の中だなあと思う。
もちろん、ググることで全てがわかるわけでは、ない。

それを踏まえた上で。
「ググれば何でもわかる」という言葉は、「ググる」ことが前提になっている。
この言葉を聞きすぎて感覚が麻痺してしまいそうになる時がある。
まるで「ググれば何でもわかる」が何か魔法の言葉でもあるかのような。
この言葉を胸に秘めていれば、日常に降りかかる問題の大体は解決できるとでも思ってしまうような。
当然だけれど、この言葉を唱えているだけでは、何も解決しない。
でも、解決できるような気になっていないか。

「ググる」ことが前提であると書いたが、それはつまり、ググらなければ、何も進まないということだ。

職場で、「にょんさん、パソコンが動かないんですけど…」「にょんさん、これプリンターから印刷出ないんですけど、どうすればいいかわかりますか?」「にょんさん、zoomの接続がうまくできなくて、これって何が原因なんですかね?」など、日常的にICT周りのことをよく聞かれる。

確かに、職場の中では割とデジタル関係のことに関して知っていることが多いのかもしれない。
でも、それはもちろん、何でも知っていると同じ意味ではない。
わからないことの方が当たり前に多いし、というか、わからないことがほとんどだ。
それに、そのわずかな「知っている」に関しては、最初からわかっていたなんてことはなくて、これまで他の人と同じように「わからない」「どうするんだ」ってことを経験してきて、その都度、自分であれこれ「ググって」調べて試行錯誤してきたことが、たまたま相談を持ちかけてくれた案件と合致しただけにすぎない。

相談を持ちかけてくれることに対して「めんどくさいなあ」とか「自分で調べてよ」なんて思ったりはしない。
むしろ、そうやって相談を持ちかけてくれたことで、それが自分の知らない分野のわからない問題だった時、それを一緒に考え、「ググったり」してあれこれ試行錯誤して解決を目指すプロセスの中で、自分自身が新たにわかったり、できるようになったりすることがたくさんある。
自分にとっては、自分が成長するチャンスだ。
だから、聞かれたらうれしくてついつい仕事をほったらかして一緒に解決するまで考えてしまう。

こういう場面を思い出すときに思うのが、「今の世の中ってとことん『はやさ』が正義だよなあ。」ってことだ。
以前、等価交換の話を書いたかもしれないけれど、その辺りのことともつながってくる。
スマホのワンクリックで、その翌日には注文した商品が届く時代。
自分が支払った分の対価が、タイムラグがほとんどなく、手元に得られる時代。
LINEの「既読スルー」なんて言葉も、「はやさ」を追い求めるが故に生まれた言葉ではないだろうか。
でも、その「即レス」のような等価交換の感覚が、生身の人間を追い越して拡張されすぎてやしないだろうか。

この感覚こそが、先に書いた「ググらず聞く」という行動につながっているように思えてならない。
自分で調べることもできるけれど、それで1発で当たりを引けるかわからないし、当たりを引けたとしても、そこに書いてあることが自分にわかるかどうかもわからないし。
だから、近くにいる詳しそうな人に聞こう、と。
でも、ぼくも相談を持ちかけられても、わからないことの方が多いから、「ちょっと待ってくださいね。」とか言って、その場でググることが多い。
けれど、そういうとき、たいてい、相談を持ちかけてくれた先生は、ぼくの様子を固唾を飲んで見守っていることが多い。笑
いや、いいんですけど、一緒に考えませんか?笑
その方が、答えにたどり着ける確率上がりませんか?笑

何度も言うが、相談を持ちかけられることは全然嫌でも何でもない。
むしろ、そのことで自分が勉強になることが多いから、本当にありがたい。
だって、その先生が相談を持ちかけてくれなかったら、その後一生知ることがないかもしれないし、今後同じような問題に自分が直面する可能性も十分にあるからだ。

でも、ぼくたち教員が、その自分で「わかる」「解決する」のプロセスをすっ飛ばして、「答え」のみを求めることに慣れてしまっていてもいいんだろうか、というモヤモヤは晴れない。
「ググって」いると、なかなか答えが見つからずに、あちこちを迷子になって、途方に暮れることも少なくない。
「ググった」ことについては、確かにたくさんの答えが出てくるが、それが答えなのか判断できないと、それは自分にとっての答えにはならない。
でも、だからこそ、「試す」の必然性が生じるとも言える。
試すことで、求めていた答えなのかどうかを検証するのだ。
そして、違ったら、また別の「試す」をやるだけ。
その繰り返し。

確かに、答えを知っている人が身近にいるなら、聞けばいいと思う。
ぼくだってそうすることがたくさんある。
でも、答えだけを知ることは、そこに至るまでのプロセスの豊かさを犠牲にすることと裏表の関係だ。
「答えを知る」ことが旅のゴールだとすると、寄り道せずに最短経路を最速で目的地につくこと「だけ」目指すというスタンスなのか。
それとも、最終ゴールは「答えを知る」だけれど、その道中も、まあ道草食いながらなんやかんや進んでいこうぜというスタンスなのか。
これって、授業観や子ども観なんかにも影響があるんじゃないだろうか。
前者の場合、そこにイレギュラーな要素が入ることをよしとしない。
後者の場合、イレギュラー自体も受け止めて面白がる。
どっちが正解というわけではないけれど、ぼくは、後者でいたいなあと思う。
「答えを知る」プロセスの中で、思いがけず生まれる副産物が実はたくさんあったりする。
そして、その副産物がいつかどこかで自分や他の誰かを助けたりすることがある。
でも、それって、その時にはそんなことわからない。
けれど、結果として、未来のある時点で、現在のこのプロセスに意味が与えられて「ああ、あの時、たまたま調べてる中で知ったことがここで生きたんだなあ」って思えることがある。
まさに、先日読了した「思いがけず利他」の内容とも重なるところだ。

つまり何が言いたいかというと、ゆっくりいこう、ということ。笑
ついつい「はやく」たどり着くことに目が眩んでしまう自分に、自戒を込めて。

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