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無題。

  「煙草とかって...吸ったことありますか?」
「え....?」
彼女が唐突にそんなことを言うもんだから、私は驚いて、言葉が詰まってしまった。
「あ、いや、別に煙草じゃなくたって良いんですよ。お酒とか、要は『いけないこと』したことありますかってことです。」
「あぁ、なるほど。」
別に彼女はきっと、喫煙とか飲酒を道徳的悪だと言いたいわけではないのだと思う。ただ彼女も私も未成年なので、そういう例えが出たというだけのことだろう。
  いけないこと、と言われるとなんだか難しい。私はしばらく考え込んでから、もうずっと昔にしまい込んでいた記憶を引っ張り出すことにした。
「ありますよ。いけないことしたこと、」
私がそう言うと、彼女はおずおずとしながら聞いた。
「どんなことか聞いても?」
「ええ、大丈夫ですよ。」
そうして私は大事にしまってあった、記憶の小包を開いた。
「もう10年以上前、僕がまだ小学校低学年の頃の話です――。」

  私の家庭はとても厳しい家でした。漫画やテレビ、お菓子、玩具などに関しては特に厳しく、滅多に買ってもらえることなどありませんでした。当然学校では周りの子どもの話についていくことも出来ず、どこぞで無駄遣いをしてはいけないからと、お小遣いなども貰うことはありませんでした。楽しみと言えば、放課後に友人の家に遊びに行き貸してもらった漫画雑誌を読むことと、友人らがプレイしているゲームを自分は下手くそなので、画面を後ろから覗き込むことくらいです。本当は私も共に遊びたかったのですが、何分負けず嫌いなもので、圧倒的な経験の差で負けるのが幼いながらにとても悔しく、自分は見ているのが好きなんだと嘘を言って強がっていました。
  学校から友人宅へ行くまでにも、通学路にある駄菓子屋に寄ったりもするのですが、私は手持ちなどは当然なく、またその駄菓子屋の店主の老婆も商売には厳しかったのでおこぼれを貰うということも出来ずに、ただ指を咥えて見ているだけしか出来なかったので、楽しいことなんてありませんでした。
  ある日、駄菓子屋で売られる小さな玩具がクラスで大流行し、友人らはこぞってそれを集めました。ただ色が違うだけなのですが、5色ほどの種類があり何分の一の確率でシークレットが出るというものでした。友人らは毎日のお小遣いを、その小さな玩具につぎ込みました。毎日の決まった額のお小遣いでは飽き足らずに、家事の手伝いなどで追加ボーナスを貰ってその玩具をコレクションする友人もいました。私も両親に強請ったことがありましたが、断られただけでなく何故か理不尽に怒られ庭の草抜きまでさせられました。
  そんな状況だったので我慢出来なくなってしまった私は、たった一度だけ、友人が会計をしている隙にこっそりと売り場からひとつだけ玩具を手に取り、ズボンのポケットの奥深くにねじ込んだのです。盗みです。落ちないように深くまで何度も何度も押し込みました。友人伝いに親に知れては困るので、勿論友人に自慢することも出来ず、その玩具は自室の机の引き出しの隅っこにしまい、鍵をかけ、それからしばらくの間は開けることは出来ませんでした。
「――ちなみに、シークレットでもなんでもない青色だったんですけど、親にバレることへの恐怖と盗みへの罪悪感から、一喜一憂する余裕もありませんでしたね。」
「なるほど...盗み、ですか。」
「はい。たかが100円でしたけどね、とても大きな罪悪感でした。万引きなんて当然、初めてだったので。」
「ですよね。」
「子どもの流行り廃りなんてあっという間なので、それからすぐにまた新しい流行が来て、一週間後にはその玩具のことは誰も話題にしてませんでしたよ。僕も馬鹿ですよね。あと少し我慢してたらそんなことしなくても済んだのに。」
「でも、我慢出来なかったんですもんね。」
「そうですよ。」と私は彼女を真っ直ぐに見て答えた。開き直っている訳ではない。後悔していない訳ではない。しかし、あのもどかしい想いに苦しんだ自分を、私だけは後ろめたく思ってやりたくないのだ。
「ちなみに貴方が盗ったその玩具は、結局どうなったんですか?」
「捨てるにも、まとめる時に親にバレて怒られるのが怖かったので、学年が上がってもそれだけは引き出しから取り出せずに隠し続けていました。でも小学校を卒業する時に、思い切って親に打ち明けようとしたんですよね。」
「それまでずっと隠してたのに?」
「はい、罪悪感の重圧に耐えきれなくて。例の玩具を手に持って親のもとに行ったんですよ。」
  今でもよく覚えている。私は自分に持てる精一杯の勇気を振り絞って「これ...」と差し出したのだ。しかし両親は全く見当違いなことを私に言ったのだ。
「わー懐かしい、なんて言って、自分達が買い与えたもんだと思い込んでたんですよ。売り場の前で僕が駄々を捏ねたから仕方なく買ってやったって言うんですよ、僕は一回もそんなことしたことはないのに。」
「記憶の書き換えって、よくありますからね。人は。」
「それで結局僕は、本当のことを話しそびれて、その罪の意識は償われる機会を失ってしまったということです。」
「なるほど...じゃあ未だに罪悪感とか、あるんですか?」
「さすがに、当時ほどの重みは感じてはいないんですけど、でもたまにね。やっぱりまだありますよ。思い返しては、あの時我慢することを選択していたら訪れていたかもしれない未来を、想像してます。」
「それは確かに『いけないこと』をしましたね。」
  彼女は何か、考えているようだった。考えているのか、迷っているのか。ただ目を伏せて、顔にかかった髪を耳にかけては毛先を弄んでいる。私は、聞くべきか少し迷いながらも「貴女は?」と言った。
「私は――。」

  私はどうにも彼女に目を引かれてしまう。眉をひそめ、薄く緑みがかった瞳に捉えられて、目が離せなくなる。そして彼女は戸惑いがちに開いたままだった唇をつぐみ、また静かに開いた。
「私も、ある意味では、盗み、なのかも知れません。」
「ある意味では、と言うと?」
「浮気、です。」
  なるほど、心を盗んだということだ。こんなにも使い古されたキザな言い回しすらも、美しく演出してしまうほど、私にとって彼女は心惹かれる空気を持つ人だった。
「人生経験が豊富なんですね。」
「そんな、辞めてくださいよ。」
  彼女が困ったように笑うので、嫌味っぽくなってしまったのでは無いかと、少し自分の発言を省みた。
「私は当時、お付き合いしている人がいました。私が中学3年生で、相手は高校2年生です。」
「部活の先輩とかですか?」
「兄の友人だったんです。」
  交際を初めて1年、彼は高校2年生とは言え、通信制高校に通い昼夜アルバイトの日々だったそう。アルバイトを掛け持ちしながら、週6、7日8時間労働で長男として家計を支えていた。
「中学生なんて、恋人とは毎日会いたい年代じゃないですか。周りのカップルは平日は学校で会って週末はお互い部活が無ければ毎週のようにデートするわけで...。でも彼は働き手だったのでそういうわけにもいかず...ちょうど恋心とかも落ち着いて慣れてきた時期だったんでしょうね、多分。少し気になっていたクラスの男の子から告白されちゃって、一気に気持ちが揺らいじゃいました。」
  彼女はとても悲しい思い出かのように語っていた。
「いけないと分かっていたんですけどね。一度だけ、その男の子に、気を、許してしてしまったんですよね。」
  「気を許した」というのは、どういうことなのだろうか。いわゆる、"身体を許した"ということなのか、しかし当時中学生と言っていたし、もっと初歩的なことなのか。どちらにせよ、私には彼女が敢えて隠したそこに、踏み込むほどの勇気も図太さも持ち合わせてはいない。
「でも私、罪悪感に耐えきれなくて、その男の子とはそれっきりにして、その日のうちに彼にそのことを打ち明けたんですよね。」
「え、言ったんですか?」
「はい。まだ10代の私が言うのも変ですけど、あの頃はまだ若かったので。相手が傷付くだけのことを敢えて言うことへの抵抗とか、なかったんですよね。ただ馬鹿正直に、隠してちゃいけないと。」
「凄いですね。そういうの、最終的に打ち明けるにしてもしばらくは言えずにいるもんだと思いますよ。」
  私がそう言うと、彼女はその言葉を拒否した。「そもそも褒められるようなことじゃないんですから、」と言う彼女に、私は確かにと思い、無粋なことを言ってしまった自分を恥じた。
「その時は少しショックを受けた様子ではあったものの、特に何もなく、静かに受け入れてくれて言葉少なに別れたのだけれど、またその夜に会うことになったんですよね。」
「夜に」
「はい。彼から連絡があって。」
  彼は随分とお酒に呑まれているようだった。放っておくと真っ直ぐに歩けないくらいに足元もおぼつかない様子で、フラフラとへらへらと私に笑いかけていた。
「え、お相手2個上ですよね?」
「ええ、はい。その頃は落ち着いていたんですけどね、私と出会う少し前まで結構やんちゃしてた人で。お酒とかバイク乗り回したりとか喧嘩とか、それなりに警察のお世話になってたみたいなんですよね。」
「あぁ....なるほど.....。」
「ただただ心配だったんですよね。そんな状態の彼は初めて見たので。」
お酒を飲んでいたことはあっても、そこまで呑まれるような下手な飲み方はしない人だった。だから余計に心配になって、私を置いてどんどん歩いていく彼を追いかけながら、後ろから何度も声をかけた。すると彼は唐突に振り返り、こちらまで歩いてきて
「平手で私の頬を、叩いたんですよね。」
「えっ、酒に呑まれて女に手をあげるなんて、最低じゃないですか。」
「いえね、それでも彼は確かに私に加減をしてくれていたんですよ。」
喧嘩の常習犯だった彼が、拳ではなくて平手で私を叩いたのは、確かに彼の中に理性が残っていた証拠だ。腕力も強かった彼は、きっと力だって私のために加減をしてくれていた。
「それに、元はと言えば私が悪いんですから。」
「そうかもしれないですけど、」
  私を叩いた直後、彼は私の両頬を優しく両手で包み泣きながら「ごめん」と謝った。彼は決して泣くような人じゃない。5人兄弟7人家族の長男として、働いて家族を支えて、いつも優しく私を大事に守ってくれていた、とても男らしい人。そんな彼が涙をボロボロと流していた。
  かと思えば、コロッとまたへらへらと笑って歩き出して、少し進んで、また急に振り返ったかと思うとへらへらと私の頬を叩く。また直後に涙を流して「ごめんね」と言う。それの繰り返しだった。泣いては笑って、叩いては泣いて。5mおきにそれが繰り返される。どのくらいの時間だったのだろうか、体感では2時間ほど繰り返されたように思えたが、もしかしたら20分程度だったのかもしれない。それでも私には、とても長い時間に感じた。私自身も歩いてはビンタされ続けて、心身共にくたくたに疲弊しきっていた。嗚呼、なんでこんなにされなくてはいけないんだろうと、心の中で嘆いたりもした。しかし、私が彼をこうしてしまったのだ。心優しい彼を、お酒に頼るしかないくらいまでに傷付けて追い込んでしまったのは私自身なのだ。私をいつも大事にして、優しく触れてくれていた彼に、私が手をあげさせてしまったのだ。彼が涙を流して「ごめん」と言う度に、悲しくて仕方がなくなった。なんて罪深いことをしてしまったのだろうと、これ以上ないくらいに悔やみ続けた。
  酔いが覚めるといよいよ悲しさが溢れ出し、悲しみと絶望の表情を交互に覗かせた。私は彼のその表情が今でも忘れられない。自分がどれほどのことをしたのか、例え彼が私を許したとしても決して許されないことをしたのだと胸に深く刺さり続けている。

  「その彼とは結局....?」
「彼はとても優しいので、なんだかんだその後やっぱり私を許してくれて、そのままお付き合いは続いたんですけどね。半年もしないうちに別れてしまいました。」
「どうしてですか?」
「私がね、ダメだったんです。」
「と、いうと...」
「好きな人が出来ちゃったんです。高校で、」
「えっ、」
「薄情ですよね。2回も彼を裏切ったんですよ、私は。その時は彼は怒りもせず、やっぱりそんな私を許してくれて、受け入れてくれて、優しく送り出してくれました。本当に、良い人を手放したなと思いますよ。」
「相当ショックだったんじゃないですかね。」
「どうなんでしょうね。しばらくは連絡取れなくなっちゃったので分からないんですけど、半年後くらいには婚約して、高校卒業してすぐくらいに結婚してました。本人曰く、その半年間は色んな人を取っかえ引っかえしてたそうなので、私は酷いことをしてしまったんだと思います。」
「なるほど、」と言って、それから私は何も返事が出来なくなってしまった。
  彼女のことを酷いと思う反面、彼女の心の痛みに共感してしまう自分もいるし、彼女の「彼」に同情する反面、非道いなぁと思う気持ちが無いわけでもない。私だって彼女のように、人として非道い部分はある。人として、"正しく"ない面もある。それこそ私だって、盗みという『いけないこと』をしているし、大きくなるにつれ私は小さな『いけないこと』を積み重ねてきた。小テストをカンニングしたこともあれば、お使いのお釣りを返さずに懐に入れたこともある。自分に気があることを分かっていながら、私はその気がないのに思わせ振りなことをして人を悲しませたこともある。そうやって私は非道いことを積み重ねてきたのだ。
「何を考えているのですか?」
  思い詰める私の顔を覗き込んで、彼女が言った。
「僕は、貴女を非道い人だと責めることは出来ないのでは無いかと思って」
「何故です?」
「僕自身も非道い人だからです。」
「良いんですよ、比べなくて。」
「そうでしょうか?」
「そうですよ。だって、私はあなたでしょ?」
「え?」
「私はね、私が彼に付けた傷の痛みを想像しても、自分の罪の深さを思っても、涙なんか流れなくなっちゃったんだよ。でも、あなたが代わりに泣いてくれてる。」
「あ、」
  そう言われて、自分が涙を流していることに気が付いた。彼女は私に顔を寄せ、涙に口付けをした。涙が伝った後の頬はひんやりと冷たかったが、涙はとても温かく、少し塩っぱかった。
「そうだった。僕は、あなた、だったね。」

  温かかった。
  私の温もりは、とても心地が快い。
  頬に残る私の唇の感覚が、愛おしく感じる。


  ガチャガチャと玄関の喧しい音を立てて母親が帰ってきた。

  さっきまで話していた2人は消えて居なくなり、空間に残ったのは、2人の気配を帯びた温度と、実体を持った私だけだった。


 「おかえりー。」

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