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昨日のつづき

目が覚めると、隣に男が寝ていた。何も身に纏わずに、素肌に銀色のネックレスを光らせて。
カーテンから射し込む陽の光が、目に痛い。鳥が鳴いている。今何時だ。
とりあえず起きると、その辺に脱ぎ捨ててあった服やら下着やらを着て、男を起こさないように、静かにそっと部屋を出ていく。


「うっわぁ…」

思わず声が漏れた。鏡に映る自分は酷い有り様だ。ボサボサの髪の毛、崩れたメイク、浮腫んだ顔面。こんな自分を男に見せる訳にはいかないと、風呂に入ってクレンジングオイルを顔に塗る。
気持ちが悪い。寝起きの脂ぎった顔に、クレンジングオイルの脂を塗りたくっている。脂に脂を。頭がおかしい。マーガリンを塗ったトーストにバターを塗っているようなもんだ。
シャワーを顔から浴びる。普段だったら、肌に良くないらしいのでやらないが、今日はする。気持ち悪過ぎて肌に悪いとか言ってられない。
水が流れていく。化粧が溶けていく。仮面が剥がれていく。全てが落ちて、まっさらになる。自分に戻る。気持ちが良い。
頭を洗って、身体を洗う。秘部に微かに残る違和感も、下半身の倦怠感も、腰の痛みも、それを抱える自分が汚いと、穢れていると思う。水が身体を伝って落ちていくと、同時にそれらが全部流されて、自分がきれいになった気がする。汚れが、穢れが、全部全部、落ちていくような気がする。気持ちが良い。

気持ちが良い。

だからお風呂は好きだ。全部全部きれいに落ちて、自分に戻る気がするから。


気持ちが良くなったのも束の間、また化粧を重ねていく。仮面を顔に塗る。装備をキメる。女を作る。笑顔を貼りつける。あの男が望む女を演じる。
哀しさを通り越して、可笑しさが湧き上がってくる。こんなにも憎悪の念を抱いているのに、まだ男に好かれようとしている。そんな自分が滑稽で仕方がない。悲しいくらいに笑えてくるんだ。


寝室に戻ると、男の寝顔を覗き込む。安らかに眠っている。まるで死んでいるかのように。気分が悪い。なんで日曜の朝という私の至福の時間に、この男の顔を見なければいけないのか。
自分が連れ込んだからだ。自業自得。
カーテンを開けると、扉を開けたままリビングに戻る。


「うわぁ………」

空き缶。空き缶。空き缶。
ビール。ビール。チューハイ。ほろ酔い。ビール。チューハイ。ビール。ビール。ビール。


こんなに飲んだのか私は、酒に弱いのに。いや、飲まされたのか、男に。昨夜男は一滴も飲んでない。素面で飲ませたんだ。私が酒に弱いのを知ってて飲ませたんだ。あわよくば頂こうとか思っていたのだろう。そしてまんまとその策略に嵌り、頂かれてしまった訳だ。クソだろ。アホだし、クソだ。気持ちが悪い。最低だ。
そんな男を連れ込んだのは私で、そんな自分が気色悪い。


思考を振り払いカーテンを開け、窓を開けると、爽やかな風と子供達の遊ぶ声が部屋に流れ込んできて、部屋を浄化していくような感じがした。しかしそれと同時に、私の部屋の汚い空気、穢れた空気が子供達に降り注いでしまいしそうで、窓を閉めてしまった。空気清浄機と加湿器とエアコンをつけると、お気に入りの音楽をかける。これでなんだか空気がきれいになったような気がした。


部屋を片付け台所に行く。
男がぶっ込んだのであろう食器が、シンクの中でサーカスしていた。今にも倒れそうなタワーを慎重に崩して、一つ一つ丁寧に水に漬ける。水に漬けた食器は、泡立つスポンジで擦ると汚れがよく取れる。洗剤のシトラスの香りが、赤茶色の油汚れを包んで落とす。爽やかな香りとノリの良い音楽を楽しんでいると、リビングの扉が開いて男が顔を覗かせた。


『おはよう』

最悪だ。私の休日の朝にこの男がいることが。そう思うのに、心は弾むし顔は緩む。

「おはよう」

辞めろ、辞めてくれ。近付いて来るな。
そんなに私に近付かないでくれ。

『ご飯どうする?』

男は私の隣に寄り添って立つ。
そんなに近くに私を感じないでくれ。そんなに近くにお前を感じさせないでくれ。

「うち今何もないよ」

私は男の顔を見上げる。十五センチの身長差。

『そっか』

見つめる。私の「うん」という返事は音になって男の耳に届いたのだろうか。ただひたすらに見つめ合う。
そして、どちらからともなく、近付いて、口付ける。深く、柔らかい、フレンチキッス。
あぁ、気持ちが悪い。離れなきゃ、離さなきゃ。そう思うのに、私の心はときめき、鼓動が高鳴る。自分の中で、気持ちが悪い、と思う思考と、男を想う感情が対立する。ドキドキする。そんな自分が気色悪い。求めれば求めるほど、強く反発する。それでも、まだ、欲しい。本当に、どうしたものだろうか。
そんな私の気も知らずに、そっと顔が離れる。名残惜しさに、それを追って、自分の顎が上がったのが少し悔しかった。

『じゃあ俺がシャワー浴びたら、どっか食べに行こっか。朝から開いてるところ』

「うん」


男が部屋を出ていくと、一気に緊張の糸が切れるのを感じた。それと同時に、自分が緊張していたことに気付く。

まだ顔が熱を持っているのを感じる。鼓動は早くなるし、感情と思考は一致しないし、葛藤はするし、自分の中でちぐはぐになってしまう。一つの身体に何人もの意識があるみたいに。こんなにストレスのかかるキスはない。というか、たかがキスでこれだ。酒の力とは恐ろしい物だと、記憶にはないが昨夜あったであろう出来事を思い浮かべる。アホだし、クズだし、最悪最低だ。酒に呑まれて、やる事やって、記憶ぶっ飛んでるとか、大学生じゃないんだから。それでも尚、愛おしいと思ってしまったんだ。


あーあ、毒されてしまったものだ。

食器を全て洗い終えると、手を拭って、もう一度窓を開ける。爽やかな空気が細かく分かれて、網戸を通り越し、私の部屋を駆け回った。気持ちが良い。涼しいし、身体が軽い。
外を見ると、近所の親子が手を繋いで歩いている。何処へ行くのだろう。公園かもしれないし、買い物かもしれない。ヒーローショーかもしれない。あのカバンを見ると近所の市営のプールかもしれない。なんだって良い、あの子が楽しそうなのだから。


こんな日常があっても良いかもしれない。

空気清浄機と加湿器とエアコンは、今日はもう要らないだろう。ピッという音が、私が耳に小気味よく感じた。

おはよう、私。
おめでとう、私。
今日も変わらず、一日が始まる。

日曜日の朝。

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