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登戸駅で、乗り換える。

  あ、登戸だ。
  バイト帰り、終電間際の小田急本線。スカスカの車内で、電車に揺られながらそう思って気が付いた。登戸駅が、自分の中で、意味を持った場所になっていたことを。


  京王線沿い。国領駅。いつもの稽古場と違う、最寄り駅。帰り道、いつもと反対方向の電車に乗る。調布で乗り換えて、京王永山駅で小田急線に乗り換える。いつもとちょっとだけ違う、帰路。いつもは反対側のホームに降りていってしまう君と、今日は同じホームに降りる。そして、同じ電車に、乗る。
  調布までたった二駅。どうしたって帰りたくなかった。ただでさえ帰りたくないのに、今日は隣に君が居る。まだ、バイバイしたくない。今日の稽古で、君と気まずくなってしまった。分かりやすく距離を置いてしまった。目を合わせられなくなってしまった。その微妙な空気のまま、何も話せずに君との今日を終わらせたくなかった。
「決めた。帰りたくないから今日はこのまま寝過ごして調布で降り損ねる。」
そんな訳の分からない私の言動に、君は少しばかりの抵抗をしてくれる。
「ダメ、帰りなさい。」
それでも口を噤んで、むくれたまま首を横に振る私を見て、君は「自己責任でね」と私の小さな非行の共犯者になってくれた。我ながら子供っぽいと思う。酷いわがままだったとも思っている。年下相手にこんなことをしている。どちらが年長者か分からないようなやり取りに、年上として、情けないことをしていると自覚していた。それでも、帰りたくなかったのだ。

  言葉が詰まってしまった。どうにかしたかったのに、自分から言葉を語る気力がなかった。それでも、君から心が離れていないことを伝えたくて、ただひたすらに君の瞳の奥を覗き込んでいた。そんな私を見て君は、小さくて、短い、だけど温かい、君の思いやりを私に伝えてくれた。心配してくれた。気を使ってくれた。たくさんの言葉をかけてくれた。私はまだ消えずに尾を引いていた恐怖心から、上手く言葉を返せなかったが、ただひたすらに頑張って頷いたり、はにかんで見せたりして、君の気遣いに答えた。
  直に君は、ぽつりぽつりと、君自身の話をし始めた。いつも自分の話になると、深くは話さずにすぐに話題を逸らしてしまう君が、私に、君の心の奥底の弱さを見せてくれた。それがなんだかとっても嬉しくて、私の前で涙目になりながら弱々しい姿を見せる君が愛おしくて、あなたの心に寄り添いたいと思った。私は、君の言葉に何か上手い助言や慰めの言葉をかけてあげることは出来なかったけれど、君のその言葉を否定せずに評価せずに優しく受け入れたいと思って、ただ一言「そっか。」と言った。
  君は心配性だから、君の降りる駅で私も一緒に降りて、折り返し電車に乗るところをちゃんと見届けてもらおうと、初めから心のどこかで決めていた。君が乗り換える、分倍河原。そこで一緒に降りた。そして反対ホームに向かおうと思ったところで、立ち止まる。もしかしたら私も、君と同じ中央線に乗り換えるルートがあるのではないか。君と離れ難くて、そう思った。そして帰路を調べ直したら、ビンゴ。まさにその通りだった。方向こそ反対だったけれど、優しい君は、私をホームまで送って一緒に電車を待ってくれた。

  次の電車まで、あと十分。それ以上は、さすがに付き合わせられない。これは十九歳社会人としての、なけなしの責任感だった。タイムリミットは十分。そこで私は君とお別れをする心の準備をしなくてはいけなかった。今日、ここで別れたら、君への想いとも、お別れしよう。そう決めていた。十九歳の私として、二歳年の離れた高校生の君を、正しく愛すために、君への恋心と、執着、とお別れをしよう。そう、決めていた。いつの間にか芽生えてずっと一緒に過ごしてきたこの想いを手放すのはちょっぴり、寂しかった。女の子の私を、私の奥にしまって、君よりも長く生きる年長者としての私を、優先しよう。恋よりも、愛の方が、私にとっては大事なのだ。
  私が大決心をしようと心を強ばらせているのを知ってか知らずか、君はまた、いつもの君とは似つかないか細い声でこう言った。
「いつも、隣に居てくれて、ありがとうね。」
はっとした。私は、おそらく、二ミリくらい目を見開いた。目元は熱くなるし、詰まっていた呼吸も、喉の通りが良くなって肺に空気の冷たさを感じた。愛おしい、そう思った。私は、ただ私が一緒に居たくて一緒に居ただけだし、ただ私が近くに寄り添いたくて隣に居ただけだった。それが君の心をほんの少しだけでも掬っていたのだと、そう思うとこれ以上にないくらいに嬉しかった。君は「寂しいんだ」と続けた。人が自分から離れていくのが寂しいと。私は分かっていた。君の寂しさをいつも見ていた。私にはどうしようも出来ないことなのだと実感しながら、悲しい気持ちで見ていた。そんな君が、言葉にして伝えてくれた。手を伸ばしてくれたようで、嬉しかった。たくさん、愛したいと思った。愛情を受け取りきれないくらいに、渡したいと思った。
  それから君が話してくれた言葉を、全部受け取った。受け取って、何も言葉が返せないうちにアナウンスが鳴って電車がホームに入ってきた。私は返事の代わりに、君を抱き寄せて背中をポンポンと叩いた。愛情をめいっぱい伝えるように。そして君も、私の背中を叩き、苦しんでいた私の心を癒してくれた。身体を離し、見つめ合って、お別れの挨拶をした。

  離れようとした彼をもう一度引き寄せて、私は、彼の柔らかな唇に、そっと別れのキスをした。

  「じゃあね。」
私は笑えていただろうか。それとも悲しそうな顔をしていただろうか。君が言葉を発する余地も与えないよう、逃げるように発車間際の電車に乗った。車内からホームを見ると、動揺一つ見せない君が、手を振っていた。私も手を振り返して、鳴り止まない心臓の音に耳を傾けた。

  電車が揺れる。たくさんの駅を通り過ぎる。そして登戸駅で、小田急線に乗り換える。やっと、帰ってきた。それまでの緊張が一気に解けたのを感じた。


  その、登戸駅だ。
  これから私は、登戸駅を通過する度にこの日のことを思い出すだろう。私にとってとても大事な出来事だった。過去の私とお別れして、新たに歩き出した日。私がまた一歩大人になって、また一つ子供で在ることを知った日。
  そして君が、私の大切な人になった日。

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