見出し画像

夏が来る

「どなたです。いまふざけてお歌いになったのは!」
突然高木先生はオルガンの前から立上ると、鋭く男生徒の側に視線を向けられた。

五時間目の唱歌の時間であった。武治達五年生は今日初めて教えていただいた北原白秋の童謡「酸模の咲く頃」を練習していた。
 誰か男生徒のうしろの方で、歌のおしまいの
  夏が来た 来た ドレミファソ
のところを、ふざけて
  夏が来た 来た ドレミファソラシド
と歌ったものがあるのだ。小さな声であったけれど、皆歌い終わって黙っている時だったからはっきりときこえた。
 高木先生はそのまま黙って立っていられた。きっと口を結ばれて、眼鏡の奥の先生の両の瞳にも何か光るものがあった。いつもは優しいこの女の先生の激しいいかの表情に、教室中がしいんとなって、誰もが顔を伏せてしまった。
 何時もの先生ならこの程度のことなら、優しくたしなめられるだけなのではあるまいか、ふと武治にはそのように考えられた。大人の人には自分達にはまだ判らないいろいろ悲しいことや、辛いことがあるのかも知れない。瞬間武治は何か複雑な大人の世界を覗いたような寂しさを感じた。
 暫くすると先生は、いまのことに就ては何も言われず
 「さあ、ではも少し練習を続けましょう」
とオルガンの前に腰を下ろされた。

 土手のすかんぽ ジャワ更紗
 昼は蛍が ねんねする

 僕等小学 尋常科
 今朝も通って また戻る

 すかんぽ すかんぽ 川のふち
 夏が来た 来た
 ド、レ、ミ、ファ、ソ

 女生徒の声だけが歌っていた。男生徒は先生の激しい怒りに一寸気を呑まれたかたちで、最初直ぐに歌い出せず、五、六人が途中から歌い出したが、他の物が黙っているので顔を見合わせ歌い止めてしまい、誰もが歌いそびれた妙な気持ちになってしまったのだ。高木先生はちらっと悲しそうに男生徒の方を見られたが、そのまま何もおっしゃられずオルガンを弾き続けられた。男生徒は愈々歌えなくなってしまって、皆怒ったような顔をして困って立っていた。武治は先生に済まないと思った。さっき怒らしてその上またこんなことをしていては、あの優しい先生に申し訳ないことと思った。自分一人が大きい声で歌い出したらみんなあとを続けるだろうと思って、歌い出そうとするが勇気が出ない。それに五年生ぐらいになると男生徒は、何と言うことなく
「唱歌なんて女の子の歌うもんだい」
と軽蔑する風がある。武治はいま歌い出して、あとで皆にひやかされるのは厭だと思った。でも歌い出そうとしてその勇気が出なかったのは、その時の五年生男生徒全部の、一人ひとりの気持ちだったかも知れない。皆苦痛を感じながら女生徒の歌声に耳を澄ましていたに違いない。
「今日はここで止めておきます」
 まだ終わりの鐘がならないのに高木先生はそうおっしゃって礼をされると、きついお顔で教室を出て行ってしまわれた。
 武治は家に帰って来ても気が重かった。
 自分はどうしてあの時歌い出さなかったのだろう。そしたらきっとみんな救われたようにあとを続けてくれたろうに。たとえあとでひやかす者が何人かいたとしたって、ひやかす方が間違っているのだから何ともないのに、なぜ歌えなかったんだろう。武治は自分が勇気のない人間に思われて情けなかった。
 夕暮れ近くなって近所の同級生のせつ子さんが、赤い鼻緒の下駄ばきで武治の家の前を通った。弟の敏ちゃんを迎えに河原の方へ探しに行くのだという。武治も復習が済んだところなので一緒に家を出た。
 夕焼け空が鮮やかに美しい。刈入れも近い麦畑は黄金色に波打ち、昼の太陽の匂が残っている。畑に働いている人達の姿がまだあちこちに見え、雑草にせまくされた野路は埃っぽく白く続いていた。
「ねえ、あんた達男生徒は、何故今日歌わなかったの」
「歌わなかったんじゃないんだ。歌えなかったんだい。」
 武治は思わず大きな声で節子さんに答えてしまった。何か泣きたい程に腹が立った。
「そう」
 せつ子さんはびっくりして武治を見たが、別に気を悪くした様子でもなく
「でもあの歌、私大好き、いっしょに歌いましょうよ」
と「酸模の咲く頃」を歌い始めた。武治も直ぐに後を受けて、二人は一緒に歌いながら野路を急いだ。
 背の高くなっている桑畑を抜けて、大川に沿った土手の上の道に出ようとするところで二人は歌を止めてしまった。直ぐ目の前に、学校帰りの高木先生が、自転車を降りこちらを見て、にっこり笑って立っていられたのだ。どぎまぎした武治達がおじぎをすると先生は、も一度にっこりされて礼を返し、そのまま何もおっしゃられずに、自転車に乗ると先へ急がれて行った。二人は土手の上の道に出ると、これから町までお帰りになる先生の袴姿が、やがて道を左に折れて長い橋をお渡りになり、次第に小さくなって行くのを見送った。橋の中程でこちらを振り返られた先生の姿は、もう夕焼けも終わって白い空と、白い空を浮かべて冷たく光る水面の間に影絵のように見えた。

「ほうい」
 川下から声がする。続いて違う声が
「ほうい、ほうい」
と呼んでいる。敏ちゃん達だ。白いシャツにパンツで、釣竿を肩にバケツの柄をぎいぎいならして、岸辺の浅い水を、ぴっしゃん、ぴっしゃんつめたくはねらかしながら近づいて来る。
「敏ちゃあん、早く帰らないと駄目じゃないの。お母さん心配してるのよ」
夕闇の中に白い歯を見せて敏ちゃんの顔は笑っている。なおも水から上がろうとせず、前よりも一層水をはねらかしながら、ゆっくり、ゆっくり近づいて来る。
「うんと魚釣ったんだぞう」
 武治は敏ちゃん達が近づくのを待ちながら、もう直ぐ蛍も出るだろうと思った。この大川端にうちわや箒を持って蛍狩りに来る夜の楽しさを想った。水泳も始まる。畑にはトマトやとうもろこしが実り、家々の垣根には日毎朝顔の花が数を増す。そうしたら嬉しい夏祭りもやって来る。お神輿と赤い提燈の夏祭りがやって来るのだ。もう直ぐ夏が来るんだと思った。
「ああ、ほら、せっちゃん、お月様だ」
 二人が振り返った東の空に、まばらな雑木林をすかした地平線から、いま金色の大きなお月様が昇るのだ。
 子供達はみんな、土手の上に並んでお月様に向かった。みんな楽しい夏の来ることを思っていた。

         おはなし 大野 健一
            絵 大野 陽子

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?