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出涸らしの茶漬けが食べたい女子大生の話 前編

202008170909

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居酒屋のバイト明けの朝、ふっと茶漬けが食べたいと思った。何の脈絡もなく浮かんだばっかりに涎が出るほど食べたくって食べたくって仕方がない。
折り良く駅前の茶漬け屋が朝メニューをやっているのを見つけて、これは良いぞといそいそ入り、食券機に定期を裏表に翳してどうにか首尾良く食券を取り、気持ち良く奥の座席に落ち着いた。

つと運ばれてきたお膳には、オクラと湯葉のかかった米茶碗にひじきと梅の小皿が添えてあって、急須からは触れてもないのに心地良い茶葉の熱が漂ってくる。
ほとんど拝むように手を合わせて、早速急須のお茶を七分ばかりとろとろと引っ掛けると、もう矢も盾もたまらず湯気のお山の真ん中に一直線に匙を突き立てた。
一口含んで広がる芳醇かつ贅沢な出汁の香り。

からい!

そう、忘れていた!
外食の茶漬けはとにかくからいのだ。
さぞかし質の良さそうな味覚の大洪水のごった煮の山椒が何やら出汁は自家製だの隠し味はどうだとどえらい濃さで襲ってくる。
もちろん店に非はない。店は店で出せる茶漬けとして相応の品質を保証するべく日々企業努力を続けてからい茶漬けを出しているのであって、悪いのは私の貧乏舌に相違ない。

相違ないのだが、じゃによって私は今切実に、それはもう切実に、貧乏茶漬けを欲している。いや勿論目の前の高級茶漬けに大変申し訳ない気持ちでいっぱいである。「茶漬け」なんていう短絡的な三文字にあっさり呑まれて、手前勝手に貧乏茶漬けを欲した私が情けない。まるっきり八つ当たりだけれど、店の茶漬けはこれ以降「高級出汁の高級漬け」とでも改名して頂いて、うちの茶漬けの事は「貧乏の出涸らし汁」とでも呼ばせてもらいたい。「茶漬け」で一括りにするには居た堪れないし胃が痛くて敵わぬ。

貧乏人は食べつけないものを食べたら最後、二、三日は胃だか腸だか分からぬ身体の芯の臓が変にもたれて悪心がして生きた心地がしないのだ。
日常的にちょっと落としたものをひらって食べていたって鋼の胃はビクともしないが、何だかお高い滋味深い慈悲深いよう分からんものを食べたら最後、拒絶反応で胃腸炎になって大根のおろしたのをようよう啜るぐらいしかよう出来ん。
げに恐ろしきは貧乏舌、未来永劫お育ちの良いふりなんて出来っこない。
私は内心で舌打ちした。公にすると無実の店の人に失礼だからだ。そのぐらいの小心っぷりは弁えている。

泣く泣く小盛の高級茶漬けを三十分だかかけて完食して、僅かな達成感で席を立った。既に胃はもたれつつある。
出口の食券機の前に若いカップルがあーだこーだと悩んで道を塞いでいて、一瞬往生した。微笑ましい光景に一声掛けて良いものか迷ってしまったのである。
すると、先ほど私が定期を裏表に翳して無駄に時間を食っていた時にニコニコ待っていて下さった店員さんが、するりとカウンターを抜けて一声、「お帰りのお客様に道を開けて下さい」。
カップルはさあっと整列して、私はその横をペコペコ、店員さん、カップル男、カップル女、おまけに往来についでに、都合四方に頭を下げてどうにか恐縮しきりで店を出た。

さて、店外に出ると、しくしく痛む胃が泣く泣く訴えてくる。曰く、「貧乏茶漬けで胃をすすげ」と。
朝餉が今終わったところで何を言っているのだ贅沢なと言いたいところだが、是非にそうしたい。
しかし、困った。
うちには箸の一膳も無い。

貧乏女学生は十八になって進学を機に一人暮らしを初めて始めて、
まずフライパンを買い、焦げ付かせて捨て、
次に包丁を買い、まな板を買い忘れ、まな板を買い、
キャベツの芯に包丁が刺さったまんま抜けなくなって寮の古新聞を貰ってきてくるんで捨て、
まな板はそのまんまどっかに無くし、
ゴミの分別の事を捨てたふた月後に思い出して真っ青になり、
さらに性懲りもなく蓋付きの雪平を買い、
味噌汁の真似事を三日置いて腐らせて鍋ごと捨て、
電子レンジで卵を爆発させ、それは笑い話で済ませたけれど、その半年後に今度は銀杏を爆発させて恐ろしくなってレンジに目張りをして封印し、
睦まじくなった同期の男子学生を部屋に呼んで深鍋いっぱいにカレーを作ったら彼は一時間トイレに篭って出て来ず、なんぼ叩いてもああとかううしか言わないので仕方なく扉に一声掛けて私は近所のコンビニのトイレへ行き、帰って来たら鍵は開きっぱなしで部屋はがらんとして寒く、
パック入りの抹茶プリンをてっきりジュースだと勘違いして買ってきて、案の定消費期限を過ぎ、ほいさと慣れた手付きで排水口に流したところが、プリンは固形だった為見事に詰まり、しかもうっかり網を外して流したもんだから排水管丸ごと抹茶プリンになり、得体の知れない洗剤を流しても割り箸でつついてみてもどうにもならず、むしろ隙間なくみっちりと抹茶プリン、混乱した末に、どうした事か、もう一本の紙パックで追い桃ゼリーを行い、もちろん抹茶プリンは程良く押し潰されて根元まで届き、上は桃ゼリー下は抹茶プリンの地獄みたような排水管が出来上がり、季節は夏、途方に暮れ、
半泣きで業者を呼んだが忙しくて日取りが合わず、ようやく業者が来た時にはどうした事か溶剤にも溶けない抹茶プリン、ポンプでやっと詰まりが解消して、何だかんだでかかった金額五万円、
ここでようやっとハッと気付いて自炊を一切諦めた。

そんな訳でうちには箸の一膳も無い。
業務用スーパーまで自転車飛ばして買ってきた徳用の割り箸なら少し有る。大容量なので余りは少しシケっている。
だけれど急須も無ければ茶葉も無い。
茶碗も無ければ米も無い。
投げる匙さえ一本も無い。

それでも、ああ、どうにかして貧乏茶漬けが食べたい。店の茶漬けはからい。
私はほとんど泣いた。

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