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【掌編】つぎは、きみ。


 本当に大切なひとだった。
 陳腐なセリフになるけれど、彼女のためなら死んでもいいと、僕は本気でそう思っていた。

 若かったせいもあるのかもしれない。
 彼女のすべてが、僕の世界のすべてだった。
 ――あの日までは。


 彼女――まりが僕の前から消えてしまったあの日から、今日でびったり15年。

 新しい家族で過ごす、5回目のクリスマス。

 『おかあさん』が予約したケーキを受け取りに行くというので、僕はサッカーボールを持って一緒に家を出てきた。が、店には入らず、洋菓子店の向かいにある銀杏公園(と僕らは呼んでいる)で『おかあさん』が戻ってくるのを待っている。

 まりは、あれから僕がどうなったのかを知らない。
 それほど一方的な別れ方だったから。

 公園に植わっている銀杏の大木に、蹴ったボールをぶつけていると、

「悠生(はるき)ー」

 『おかあさん』が公園の入口で呼んでいる。
 僕は聞こえないふりをした。力いっぱいボールを蹴って、銀杏の幹にぶつけてやる。鈍い音が響いた。からからに乾いた土色の葉が、2、3枚、音もなく地面に降る。

「あんまり乱暴しないの。木だって痛いのよ、そんなことされたら」

 そばまでやってきた『おかあさん』が腰をかがめ、宥めるように僕の肩に手を置いた。

 なんという皮肉だろう。
 人の痛みはわからないくせに木の痛みはわかるのか。

 仕方ないとはわかっていても子供を諭すような口調もあいまって――僕は思わず、笑ってしまった。

「……待たせてごめんね。帰ろう、悠生」

 どことなく怯えたように、少しだけ困ったみたいに、彼女は微笑む。
 僕のすべてを奪った彼女の笑顔は、あのときと、変わらない。

「まり」

 僕はこの日を待っていた。
 『おかあさん』ではなく『まり』と、15年前と――僕からしたらたった5年前と――まったく同じ温度で、同じ熱で、ふたたび君の名前を呼べる日を。

 なにも知らない君に、いままで言えなかったぜんぶを伝えられる日が来るのを。

「僕、死んだよ」

「……え、なあに……?」

「死んだよ、僕。あのクリスマスの終わった夜に」

 まりの微笑みが固まった。
 びしりと、まるで硝子細工がひび割れるみたいに。

「帰ろう、『おかあさん』」

 僕は笑って、まりの手をとった。
 まりの手はびっくりするほど冷たくて、僕の手は、燃えるように熱かった。

 僕の笑顔はいま、君の目にどんなふうに映っているだろう。


 ――次は君の番だよ、まり。
 僕がすべてを支配してあげる。

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