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【初投稿】『鬼滅の刃』が教えてくれたこと。そして、新たな決意。





― 『鬼滅の刃』を読み終えた日に、「祖父が病気になり、余命3か月」との連絡が入った。



(*『鬼滅の刃』について、途中書いていますが、ネタバレとなるような具体的な内容核心となる部分には一切触れていませんので、安心してお読み頂ければと思います。)




 僕は現在26歳だけど、幸運にも、これまでの人生において、親族を失った経験がなかった。



昔は、よく夜中になると、家族や親戚が唐突に死んでしまうのではないかという、言い様のない恐怖に突然襲われることがあった。

その度に、僕は、布団の中で震えながら夜を過ごしていた。


そんな夜は、大体がひどく長く感じられて、冷たくて暗い夜の気配が、自分の周りの一切のものをこのまま飲み込んでいってしまうんじゃないかと、そんな気さえしてくるのだった。

そして、一度そうなってしまうと、何の力も持たない自分にとって、孤独な夜はどうにも耐え難かった。


でも、どんなにどうしようもない夜があっても、ふと気づくと朝になっていて、長い夜に感じた死への畏怖は、朝の光に照らされた家族の顔を見れば、不思議と嘘のようにどこかへ消えているものだった。



僕も25歳を過ぎて、死というものの理不尽さも、誰かが突然居なくなることの可能性についても、これまで考える機会はたくさんあったから、きっと今なら、身近な人の死さえも受け入れられるのではないかと静かに思っている。



あぁ、自分の元にも遂にやって来たかという感じだろうか...。



先日も、僕は、『鬼滅の刃』を読みながら、ちょうど死について考えていた。


だから、読み終えたタイミングでさっきの連絡が来たときには、驚きと同時に、「ひょっとして、これは何かの運命なのかもしれない」と思ったのだ。


何か目には見えないそういう力に後押しされるようにして、もし、''何か''を始めるきっかけがあるとしたら、きっと、それは「今」だと思った。


そうして僕は、何はともあれ、まずは、自分の思いをつづろうと思い立ったのだ。





  僕には、生来、自分の中にあるものを「発信したい」という願望があった。


「発信」といえば、昨今では、SNSが発達したおかげで、以前にも増して簡単に自分の思いや言葉を発信できる世の中になっているけれど、僕が密かに願望として抱いていたものは、SNSのような、日々会話のように流れていく流動的なものというよりかは、例えば小説や音楽のようなものを「作品」という形、記録として後に残すことだった。


だけれど、これまで何度も自分の中にあるものを世に発信しようと、イチから生み出そうとしてみたものの、結局最後まで形にできたことは一度もなかった。


それにはきっと、これまで抱えてきた「ある僕の考え方」が影響していたように思う。




 僕は人生の中で、ずっと「後ろめたさ」のようなものを感じていた。


何をするにも「自分なんかが...」という思いが先行してしまうのだ。


それがいつからで、どうしてそうなってしまったのか、はっきりとした理由も原因も分からないけれど、ただ、自分に対して向けられた厚意に対して、それを受け取る裏にはいつも、どこか後ろ髪をひかれるように「自分なんかが申し訳ない」という思いがよぎってしまうのだ。


そのせいなのか、どうなのか、鶏が先か卵が先か分からないけれど、僕は、とにかく自分に自信が持てなくて、自分が好きになれなくて、何度も自分で自分を諦めてきた。


人と接することで感じる「自分という存在」がどうにも苦手で、気づけば一人でいる時間を好むようになっていた。


それが一番楽だった。



僕はこんなだったけど、ただ、周りの人にはずっと恵まれていた。


両親は常識人で、大人になるまで不自由なく育ててもらったし、尊敬できる大人にも出会えたし、友達も人並にいた。


これまで関わった人たちから、僕はたくさんのものを与えてもらったと思う。


でも、意識の外、心のどこかではずっと孤独だった。


常識的で立派な人たちに囲まれるほど、それとは少し違う感覚を持った自分は、きっとここでは一緒に生きれないのだと悟った。


そうやって、僕は周りの期待に応えられずに挫折して、どんどん想像とは違った道に結果自分を追いやってきた。


そんな自分が嫌で、与えてもらってばかりで何も返せない自分が、ずっと本当に情けなくてどうしようもなく恥ずかしかった。




そんなときに、心を支えてくれたのは、いつも、会ったこともない''誰かの言葉''だった。


それは、あるときは、楽器と一緒にメロディーとして乗せられた言葉だったし、またあるときは、本のページをめくった先に文章として刻まれた言葉だった。


そして、これまでと同じように、『鬼滅の刃』を読んだ日、奇しくもじいちゃんが死ぬと分かったその日、そこにあった言葉たちに、僕の心は、またしても救われたのだ。


それがあまりに、これまで感じてきた自分の苦悩にぴったり寄り添ってくれる優しい話だったから...。


僕は最初、『鬼滅の刃』がここまでヒットしている理由について、単純にストーリーが面白いからだとか、ジャンプ作品らしく随所に感動できるポイントがある、謂わば「王道作品」だからだと思っていた。


もちろん、それはそれで間違いではないのだけれど、それ以上に、この作品がこんなにも社会全体で広く支持されたのは、きっと、作品に込められたテーマ、作者が伝えたかった言葉の数々が、本当に多くの人の心に訴えかけるような、また、優しく寄り添ってくれるような、作品全体がそういう「深い愛情」の空気で満たされていたからこそなのだと、作品を知った今では思う。



この作品では、「家族」「仲間」という大きな愛のテーマの中に、「罪悪感」をつのらせて生きる中での「苦悩」だったり、才能あるものへ抱く「嫉妬」「劣情」といった、人間の「弱い」部分がたくさん描かれている。


そして、その「弱さ」に寄り添う言葉、姿勢がどこまでも優しくて、抱えた苦悩も葛藤も、最後には、色んな愛の形に帰着するように描かれている。


そういった感情に出会ったことのある人の心は、その中で、きっと救われるはずだと、僕は、信じたい。


本作品の主人公である「炭治郎」は、どんな弱さにも立ち向かう「強さ」と、そして寄り添える「優しさ」を持った人だった。


その様はまさに、作者自身の心や、世界に対する想いの丈を写した鏡そのもののようだった。

それ程までに、キャラクターの言葉に、「生きた者としての温度」を感じたのだ。



そして、僕が、ずっと欲しかった言葉は、気づけば、そこにあった。



それは、「人の想いは受け継がれる」ということ。


一連の話を読み終えたときに、僕は、その時になって初めて、「これまで与えてもらった数々のものを、今度は別の誰かに与える恩返しの形もある」のだと知ることができた。



僕は、ずっと、人からこれまで与えてきてもらったものに対して、何も返せていない、それらの期待には見合わない人間だと思って生きてきた。


だから、自分に自信がなくて、何も持っていない自分が嫌いで、そして、何より怖かった。


それは、おそらく今も変わらないかもしれない。

でも、たとえ今すぐに直接に恩返しすることが叶わなくたって、自分がこれまでの人生で与えてきて貰ったものを、別の誰かに返すことだってできるのだ。


そういう形の恩返しもある。


そのことを『鬼滅の刃』が教えてくれた。


そして、今回の出会いを経て、


''いつか、自分の中にあるものを形として残したい''


そう漠然と願っていたことを実現するために、強く前に進むための決意ときっかけを貰ったのだ。


自分が辛かった時に、これまでそうしてもらったように、ほんの少しでも、誰かの心を灯せたなら、きっと、僕は生まれてきた意味を果たせるんじゃないかと思うのだ。


僕は、やっぱり表現者として生きていきたいと改めて強く思う。


才能があるかないか、お金になるかどうかなんて、本当はずっと関係なかったはずなのだ。


自分の想いや言葉を発信して、それが、もし、何処かの誰かの何かのきっかけになるようなことがあれば、それこそ、とてつもなく幸せなことなのではないだろうか。


こうやって、自分が与えてもらったものを今度は、別の誰かのもとへと繋いでいけたなら...。




じいちゃんが生きている間の残り三か月の間に、僕は、果たして何者になれるかは分からない。


でも、じいちゃんに貰ったものも確かにここにあって、それは、この先も残り続ける。


それをより多くの人達に伝えられる存在になれるように、精一杯頑張ろうと、僕はその日、心に固く決意した。


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