見出し画像

10年

今日、2019年1月6日で僕は10歳になった。

10年前の今日、僕は水色の手術着をきて移動式のベッドの上に寝かされていた。僕の喉からは太い透明なチューブが伸びていて、そのチューブのもう一方は人工呼吸器に繋がっていた。2009年1月6日の朝9時、それが僕の手術の予定時刻だった。

僕は、実は2004年の冬に難病を患い、その頃入退院を繰り返していた。その病気の名前は「びまん性汎細気管支炎」といい、徐々に呼吸ができなくなる肺の病気だった。

その頃、周りの人にカミングアウトというか、自分のことを知ってもらいたいと思い日記を書いたとこがある。

自分について

この日記から二年と半年、ついに僕の病気は僕の肺のほとんどを蝕み、僕は自力で歩いたり、ぐっすり寝たりすることができなくなり、ついには呼吸することすら出来なくなっていた。

そして僕は、肺移植をする以外に自分の命をこの世に留めておけるすべを全て失ってしまう。

そして2008年のクリスマスに僕は人工呼吸器を繋がれたまま東京の大学病院から仙台の大学病院に移送され、ICUで年を越し、2009年1月6日に手術室に運ばれた。

そのあたりのことは退院した後に書いた日記がある。

退院から1ヶ月が過ぎて

そうして実家で家族と暮らすようになり、当時は考えもしなかった娘や次男など子どもたちにも恵まれて、毎月一回都内の大学病院で検診を受け、一年に一度は仙台の大学病院で一年検診を受けながら、なるべく遠い未来のことは考えないように、目の前の一年一年をゆっくりと重ね、ついに、今日、あの手術の日から10年という日を迎えることができた。

やりたくてもできなかったいろいろなこともほとんどできるようになった。当時は諦めていたスノボや山登り、一度はおりたバイクにもまた跨って、辞めざるをえなかった仕事も再開し、僕は今フルタイムで働けている。何より、長男の時は出来なかった子どもの抱っこや、手をつないでの散歩、一緒に走ったり叫んだり、寝汗もかかずにぐっすり寝たり、冷たい空気を胸いっぱい吸い込んだり、親友を訪ねてNYまで旅行に出たり、とにかく何だって出来るようになった。

なんて幸せなんだろうと、毎年1月6日が来るたびに思うけれど、それらが積み重なった10回目の今日は本当に、本当に感慨深い。

ずっと隣で支えてくれている妻に、
僕の生きる原動力になってくれている子どもたちに、
いつでも力になってくれる家族や親族に、
いつも一緒に笑ってくれる友人知人たちに、
命を繋いでくれたドクターや
多くの医療関係者のみなさんに、
心からのありがとうと、これからもよろしく、を。

そして、あの時に数ヶ月と告知されたこの余命が
これからもずーっと続いていきますように。

人工呼吸器に繋がれて、
ベッドから1メートルも離れられなくて、
外の景色は窓からの空しか見えなくて、
口を開けても声が出なくて
目の前にいる子どもの名前すら呼べなくて、
何度も死を覚悟する場面があって、
いつまで生きられるのか不安しかなかった
あの入院病棟での日々を
一日一日と過ごしていった先に、
朝、近所の海岸でおんべ焼きを見ながら
友達と新年の挨拶や他愛もない話をして、
お昼を食べてから息子を剣道に送って、
夜は剣道の新年会にお呼ばれして、
娘と一緒にお風呂に入って髪を洗ってあげて、
湯上りにこうしてnoteを書いている
今日という奇跡があるのだと、
明日も忘れずにいようと強く思う。

2019年1月6日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?