退院から1ヶ月が過ぎて
みなさま、お久しぶりです。
早いもので退院からあっという間に1ヶ月が経ち、気がつけば、咳も痰も出ない、アブラ汗もかかない、頭痛も微熱もない、夢のような毎日を送れるようになりました。
知ってる人も多いとは思いますが、今まであまり詳しくは説明してこなかったので、去年の暮れから今年の春先にかけて起きた出来事を簡単にまとめておこうと思い、日記にしました。
簡単・・・と言いつつも、書いてみたら結構な長さになってしまったので、読むのが大変だったらごめんなさい。興味のある方のみ、お時間のある時にでも読んでみてください。
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2008年10月末
徐々に悪化していた体調が、いよいよ限界に近づきつつあるのを肌で感じはじめる。日常生活でもほとんど外出しなくなり、家の中でも頭痛や倦怠感、微熱やアブラ汗、咳や痰などに悩まされ、朝起きるたびに寝ぼけたり、幻覚を見るようになる。通勤に使っていたバイクのエンジン(キック式)が自力でかけられなくなり、仕事を辞めるコトにする。
2008年11月上旬
このまま妻と一歳の息子との三人暮らしではどうにも生活が出来ないだろうというコトで、療養も兼ねて神奈川県の実家に引っ越す。
2008年11月16日
引越しのドタバタ中に体調を崩し、地元の昭和大学病院に入院。検査の結果、持病のびまん性汎細気管支炎による肺の機能の著しい低下、痰づまりによる動脈血二酸化炭素分圧(PaCO2)の増加(通常40ほどのところ、僕の場合は120を越えていた)が認められ、すぐにNIPPV療法(マスク式の簡易的な人工呼吸器)を試される。・・・が効果なし。酸素飽和度(SpO2)も酸素の流量を12リットルにしても65%程度。このままでは、いつ呼吸が止まり心臓が止まってもおかしくない状態である、と言われ、選択肢としてはもう人工呼吸器をつける以外なくなる。
2008年11月21日~25日
まずは口から人工呼吸器を挿入し、肺に溜まった二酸化炭素を出したり、痰を出したり、応急処置をする・・・が、僕は眠らされていたので、よく覚えていない。
2008年11月26日
ノドの切開手術、ついにノドに人工呼吸器装着。口や鼻から息が出せないので鼻がかめなくなる。喉でうがいが出来なくなる。モノが飲み込みにくくなる。なにより、声が出なくなる。
そして、ノドにあけられた穴からストローみたいな吸引機で痰を吸ってもらう毎日。痰の量がハンパじゃない。毎日何度も交換される、痰で一杯の吸引ビーカー。寝ても痰が出るし、食べても痰が出るし、座ってても痰が出る。自分でも、これはそろそろマズそうだなぁ・・・と自覚する。
ちょうどその頃、肺移植の登録やインフォームドコンセントでお世話になったドクターに僕の現状の相談に行っていた妻と父親から衝撃の告知を受ける。
「このままでは、この冬を越えられないかも知れないって」
この瞬間から、僕の周りはものすごいスピードで、それこそ本人も追いつけないような速度で、いろんなコトが話し合われ、決まっていった。まず、今まで漠然と考えていた「脳死肺移植」を待つ時間はない。移植を「生体肺移植」に切り替える。ドナーは父親と弟。「生体肺移植」とは、二人のドナーから25%ずつ肺をもらってレシピエントの肺と取り替える移植手術のコト。
2008年12月08日
東北大学病院(移植登録をしていた病院)から移植コーディネーターとドクターに来てもらい、病室にて、家族全員集合して第2回インフォームドコンセントを受ける。今までより、より詳しく、より厳しい内容。もちろん良いコトばかりなワケはない。・・・ワケはない、とは分かっていても渡された冊子に書かれている手術中・手術後のリスクの数々にやっぱりビビってしまう。でも、ちょっとずつでも前に進むしかない。
2008年12月15日
ドナーである父親と弟の肺の検査が始まる。僕はと言えば、人工呼吸器がノドに付いているせいと、精神的な疲労とで、食事がほとんどノドを通らない日々。自分の命が、目の前の小さな機械1つで維持されている恐怖。今思えば、多分この頃が一番ツラくて、情けない顔をしていたと思う。
2008年12月25日
東北大学病院からドナー検査の最終結果が出て、「移植手術OK」との連絡が入る。手術日は来年(2009年)の1月6日に決定。とにかく手術に挑めるコトがとても嬉しかった。やっとスタートラインに立てた気がした。気がつくと世の中はクリスマスだった。
2008年12月26日
呼吸器ごと救急車に乗せられ嫁と二人で仙台へ。11時半出発、17時半到着。道中は眠り薬でウトウト。到着後、そのまま東北大学病院の、3FのICU(重症病棟)の、さらに一番奥の、二重扉の隔離部屋へ。その部屋で、手術までの約10日間を過ごす。ICUでは看護師さんが24時間体勢で付きっきりで看護してくれる。痰の吸入や呼吸器の扱い、呼吸噐疾患の患者への対応など、全てにおいて今までの大学病院のそれを上回っていた。そして何より病院のご飯が美味しかった。
ただ、不満だったのは一日に3回(各15分)しかない面会時間。今まで昭和大では妻が付きっきりで世話をしてくれていたので、思い通りにいかないICU生活に初めはやや面喰らう。それでも、東京で過ごした、手術が受けれるかどうかも分からない宙ぶらりんの日々よりはよっぽど精神的には安定していたと思う。ほぼ寝たきりながらも、ベッドサイドで小さな自転車をこいだり、看護師さんやドクターたちと筆談でコミュニケーションを取ったりして、けっこう気を紛らわすコトが出来たのが良かった。妻も家族待機室で寝泊まりをしながら、面会時間はすべてICUに来てくれた。
2009年1月1日
ICUで新年を迎える。
2009年1月3日
弟夫婦が仙台に到着。
2009年1月4日
両親が仙台に到着。これで、ドナーを含め家族全員が東北大に集合した。1歳の息子だけは、お義姉さんの家に預かってもらう。そしてドナーの2人も入院へ。
2009年1月5日
手術前日。最終のインフォームドコンセントや打ち合わせ、注意事項の確認など、いろんな人が代わる代わるICUに入室してくる。精神的には落ち着いていたと思う。もう、なるようにしかならない、と開き直っていたのかも知れない。
2009年1月6日
ついに、手術当日を迎える。
08:35 術前の面会
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09:00 手術着に着替えて手術室へ
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12:00 弟、手術室へ
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13:00 親父、手術室へ
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19:00 弟、手術終了 ICUへ
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19:30 親父、手術終了 ICUへ
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2009年1月7日
01:45 僕の手術が終了 ICUへ
ところが、ICUに戻ってからも出血が止まらず、
医師たちの判断で、再手術が決定。
05:00 止血のために、再び胸を開き手術開始。
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09:00 再手術終了 ICUへ
結果、ほぼ24時間にわたる大手術となった。
2009年1月16日
何となく意識を取り戻す。記憶が曖昧で、朦朧としていて、初めは自分がどこにいるのかも分からず、自分の家に帰って来ていると勘違いしていた。妻と母親との面会の中で、徐々にいろんなコトを思い出す。そして、自分の体が動かないコトに気がつく。肘から先を挙げるのがやっと。胸のあたりは板が乗っているように重く堅い。首から、体から、足から、いろんな管が延びていて、ベッドの周りは機械だらけだった。でも、呼吸はしている。あぁ、手術が終わって自分は生きているんだ・・・と実感する。
2009年1月17日
ドナーの2人、退院。
2009年1月22日
呼吸器を外して自分で呼吸する練習を開始。少しずつ外す時間を延ばしていく。それに伴い、ベッドでの呼吸リハビリも開始。堅くなった胸まわりをマッサージでほぐしてもらうと、とても呼吸が楽になり気持ちがイイ。
2009年1月24日
初めて自分の胸の傷跡を見る。結構な生々しさにビックリ・・・というか、ちょっとひく。胸の上を、まるで鉄格子か電車の線路のように一直線にホッチキスの芯みたいのがいくつもくっ付いている。糸でグルグルと塞がれた5つのドレーンの穴は、まるでお湯の中で花開いたジャスミンのお茶っ葉がくっ付いてるようだった。
2009年1月26日
呼吸器が外れ、スピーチカニューレを付けてもらう。スピーチカニューレとは、ノドに開いた穴に付ける弁みたいなモノで、それにより、ノドの穴を人工的に塞いで、 声が出るようになる・・・という代物。そして、2ヶ月ぶりに自分の声を出す。・・・喋り過ぎで疲れる。
2009年1月28日
ICUが一杯になって来たコトと、病状が安定していることから、ついに病室を移るコトに。とは言うものの、まだ一般病棟に空きがなく、結局、外科病棟3Fの重症患者受入病床(2人部屋)へ。
2009年1月29日
リハビリ中、術後はじめてベッドサイドで立つ。もちろん歩行器につかまってだけど、それでも震える細い足で何とか立てた。ただ「立った」だけなのに、本当に嬉しかった。
2009年1月30日
また病室を移動。今度は同じ重症患者受入病床(3F)の個室。今度の部屋は、広くて何だかイイ感じ。立つ→車イスに座る→そのまま食事、が可能に。ずーっとベッドの上でしか食事が出来なかったから、ベッドを離れての食事なんてウソのよう。やっぱりご飯はちゃんと座って食べた方が美味しい。うん。ただ、この頃から円形脱毛症が進み始める。
2009年1月31日
洗面台まで車イスで移動して、術後はじめて自分で手を洗う。いくら擦ってもアカが止まらない自分の両手にビックリ。早くシャワーが浴びたいと思う。
2009年2月1日
ポータブルトイレへ。今まではオムツ(ベッドで寝たままオムツに用をたすのは本当にツラい!)→ベッドの上での簡易オマル(オムツよりはマシだけどやっぱりこれもツラい!)だったので、座って用が足せるコトの有り難さを痛感した。自分で出来るコトが少しずつ増えていく。まるで息子の成長をみているようだな、と思う。
2009年2月2日
ついに15Fの一般病棟(個室)へ。仙台の街並みと、遠く蔵王の山々が見渡せる。ここへ上がってくるコトをどれだけ待ったコトか。よし、あとはリハビリを頑張るのみだな、と思う。
2009年2月4日
酸素以外、点滴や心電図や管という管が全部取れる。もちろん体自体はまだまだ重たいけど、それでも管がないだけでかなり気分的にスッキリする。
2009年2月5日
スピーチカニューレも外され、ノドの穴をガーゼで塞いだ。そして初めて17Fのリハビリ室へ。これぞ絵に描いたような、ザ・リハビリ室。挨拶代わりに平行棒を2往復。歩いてる自分にちょっと感動。俄然やる気が出てくる。シャワーも浴びれるようになる。
2009年2月中旬
とにかくリハビリの日々。胸周りのストレッチ、マッサージ、歩行練習、玉入れ、輪投げ、自転車こぎ、階段の上り下り・・・。とにかく、昨日出来なかったコトが今日出来るというコトが嬉しくて楽しくて仕方がなかった。
2009年2月25日
4人部屋に移動。もう自分のコトはほとんど自分で出来るようになり、ナースコールも全然使わなくなる。と同時に、この頃からクスリの影響で顔がまぁるく(ムーンフェイス)なり始める。
2009年3月4日
妻が神奈川に帰る。
2009年3月16日
無事退院。
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以上、ご報告と記録も兼ねて、この年末年始に僕に起こった出来事を、大雑把にまとめてみました。
当時の感情や細かなコトを書いていくととても膨大な量になってしまうので、なるべく感情的なコトは抜きにして起こった出来事をただ正確に書いてみました。
心配してくださった方々、応援してくださった方々、支えてくださった方々、気にしてくれていた方々、ご心配おかけして申し訳ありませんでした。
そして本当にありがとうございました。
おかげさまで、今は退院から一ヶ月が過ぎ、神奈川県は横須賀の自宅でのんびりと生活しています。月2回の検診でも今のところ何の問題もなく、心配していた拒絶反応も感染症の疑いもとりあえずは無い様子です。(入院時からの円形脱毛症とムーンフェイス、それに退院後急に豊かになった食生活のため跳ね上がった中性脂肪の数値以外は)
近場までなら車の運転も出来るようになり、階段の上り下りも毎日何度も出来るようになりました。何より、酸素を持たずに外出できるコト、そして酸素カートを引いていた手を息子と手を繋ぐために使えるコトは、本当に何にも代え難い喜びです。もちろん、まだまだ油断は出来ないし、筋力も全然回復してないし、飲んでるクスリの量も多いですが、それでもまぁ、ぼちぼちやっていこうと思っています。
最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
それでは、また。
2009.4.25
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