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死は平等に訪れるは本当?

かいくんは病気で死んだ。
冬の明け方、仕事終わりに一人で倒れて3か月生死を彷徨い、コロナ禍で家族も側につくことを許されず、最後の時も病室で一人だった

「死は平等に訪れる」とよく言うけど、本当に平等と言えるのかとこのコロナ禍で思う。
確かに万人に死は訪れる。それは平等。今のところ永遠の命を得た人の話は聞いたことがない。
病気の人もいれば事故の人もいる。長患いの人もいれば、スンと途切れる人もいる。
それでもどういう経緯にせよ「死」は平等に訪れる。

でも、生きるチャンスは平等ではない。

かいくんは新型コロナウイルス感染症の第三波のかかりのころに倒れたので病院の受け入れも困難ではなかった。
その時にできる最適な治療を受けられたと私は思っている。
しかし急性期を過ぎ、慢性期に入って転院先を探す時には選択肢はなかったし、その先は回復のための治療ではなく生が途絶えるまで見守られていたという風に私は受け止めている。

コロナ禍で自宅療養者が増えて十分な医療が受けられないまま亡くなる方がいる。
本当なら病院で逐一症状を把握・治療されることで救われたかもしれないけど叶わず、その結果訪れた死を平等な死とは言いたくない。
「生」を望んでもそもそもチャンスをもらえなかったような気持ちになってしまう。

例えば、どれだけの医療を尽くされるかは本人だけではなく家族の意思も関わるし、それには経済的限界も絡んでくる。
でもひとまずは病院で見立てをもらえるのが当たり前と思っていたけど、そうでなくなった昨今のモヤモヤ。
そうなると「死は平等に訪れる」ではないよなぁ。


かいくんが倒れたのがコロナ禍でなければ、きっと私は付き添えたんだろう。
もしかしたら私や家族の声掛けに反応して意識を取り戻したかもしれない。
生きることへの意力を保ったかもしれない。
そう思うから致し方ない死だったと思えずに私は1年過ごした。
医療者からではなく身近な者から見守られず励まされずに至った死は平等とは思えない。

「死」は平等に訪れるけど、
「生」のチャンスは平等でない。
それが「このご時世だから……」ということに世界全体が慣れてきていることにやり場のない虚しさを感じている。

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