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小説『雑記帳』より。(最終話)

最終話 永遠はない

お兄ちゃんが座っている後ろから抱きかかえるように抱きしめてきた。

私がどういう反応をしていいのか分からずに固まっていると、さらにギュッと力を入れて抱きしめてきた。
これは、お兄ちゃんはどういうつもりなのだろう。

だいたい、私のことをどう思っているかも改めて聞いたことがない。確実に、お子ちゃま扱いはしても、女としては見ていないと思っていた。

「お、お兄ちゃん。」

私の声を無視して、お兄ちゃんはバックハグ状態から私の頬をなでて、私を身体をよじるように後ろを振り向かせた。
お兄ちゃんは何も言わず、ただ優しく身体を撫でまわし、深い深いキスをしてさらにギュッと抱きしめた。
不快ではなかった。
不快ではないが、快感でもなかった。お兄ちゃんの手が私のシャツの中に入ってくると、その手は大きく、でも女性の手のように滑らかだった。

その時初めて、反射的に身体を自分でよじった。お兄ちゃんはそっと手を放し、私から離れた。

「遅くなるから、送るよ。」

お兄ちゃんはアパートの駐輪場から自転車を出してくると、私を後ろに乗せて、
「しっかり掴まって。」
と促した。

私がお兄ちゃんの背中にギュッと掴まると走り出した。夜風が気持ちいい。
冷たい夜風に、お兄ちゃんの温もりを感じていると無性に涙が出そうだった。私の家の近くにくると自転車を止めて、

「近所の目があるだろうから、ここから帰りな。気を付けて。」
と私を下して自転車をターンさせると漕ぎ出そうした。

お兄ちゃんはそこで振り向いて、
「なにしているんだ。早く帰りなさい。」
と言うので、
「お兄ちゃんを見送ってる。夜は暗くて危ないから。」
と私が言うと、やれやれという顔でまた自転車をターンさせて私のそばにきた。

「素子はお子ちゃまだからな。俺じゃなくて、お前が危ないんだよ。」
と薄く笑いながら、唇を軽く重ねた。

あまりにも自然すぎるキスだった。
お兄ちゃんは再び自転車をターンさせると、今度は振り返らずに帰ってしまった。

私はその姿が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。
いつも三人並んでいたから、お兄ちゃんの後姿を初めて見たような気がした。それは私が見る、初めての男の背中の哀愁のような気もした。


学校の卒業が決まって就職も決まり、学校を卒業するまで春休みの間ずっとその職場でバイトをしてきた。

そしてとうとう明日は入社式というところまできた。
学生の間馴染んできたこのバイトの職場ではなく、全く知らない会社に就職するのだ。

あまりに馴染みすぎて、なんだか不思議な感じがした。
毎朝おはようございますと挨拶を交わして朝礼をし、仕事をして社食でご飯を食べ、膨大な量の仕事をこなして、残業時間に突入して・・・という毎日に一ミリの違和感も感じていなかった。

バイト生活は忙しいながらも充実していて、周囲の人も優しかった。
ずっとずっとこの状態が続くような、そんな気がしていた。だが、それは幻想にすぎない。
ずっと、つまり永遠何てことはあり得ない。

私をこのバイトに推薦した部長職の人が、最後の日に私のデスクにやってきて、
「素子さんいなくなるって、ちょっと寂しいね。真面目で溌溂としていて、周りに溶け込みすぎてなんだかまるで社員みたいな気がしていたから。」
と寂しそうな笑みを浮かべていた。

「でも、この今の状態も変ってくるから、意外といいタイミングで他に就職して良かったかもしれないね。」

「この職場が変わるんですか?」

私は驚いて聞き返してしまった。
自分のどこかに、例え自分が居なくても、ここの職場はこのままでいて欲しいという気持ちがあったのかもしれない。


「そうだよ。このメンバーもアシスタントは結構削減されて、メインスタッフは専門性の濃い部門に異動するんだよ。ここに残るのは僕と、ほんの一握りのオジサンだけ。」
と部長が笑いながら言っている。

つまり、アシスタント職のお姉ちゃんはここから退職することが濃いし、お兄ちゃんはオジサンではないから、違う部署に異動するわけだ。
本当だ、この変化で寂しい思いもせず、私はタイミングよくこの職場を離れるわけだ。

「それでね、みんなの希望なんだけど、素子さんの送別会をしようって・・・・・。」

部長が話していることが、だんだん遠く聞こえてきた。自分の職場みたいに思ってきたが、私はただのバイトで、しかも就職するまでの仮の職場。
自分が感じてきた温かいものが、まるで幻想だったような気がするのと同時に、ただの勘違い女だった自分が痛かった。


「で?お兄ちゃんとお姉ちゃんとはちゃんとお別れしてきたの?今まで良くしてもらったんだから、お礼は言った?」

就職してから一カ月後、雑記帳に着いてからこれまでの話を長々としていた。
夜なのに、珍しく仕事帰りの常連が一人もいない。

「だから、仕事の最後の日はちゃんとみんなに挨拶してきた。それだけ。」
私が言うと、鈴木さんがため息をついて、

「素子ちゃんはお兄さんが好きだったんだろう?」
と確信をついてくる。

「うん。たぶん。どういう形かは自分でも分からないけど、好きだった。」
「お姉ちゃんも好きだったんだよね。」
「うん。」
私がうつむいたままでいると、
「まぁ、後は二人の問題だからいいのか。」
と鈴木さんがポツリと言った。

私はお兄ちゃんとお兄ちゃんの部屋で会った後、ほとんど会話らしい会話はしなかった。
お兄ちゃんがどう思っていたかは分からないが、私は自分から目も合わせなかった。
お姉ちゃんは元気になっていつも通りになったが、もうプライベートで一緒にでかけることはなかった。

「そうだね。楽しかった。それだけで良かった。」
私が言うと、鈴木さんが窓の外の様子を見てから話し始めた。

「あのさ、まだ他の人には言ってないんだけど。」

グラスを拭きながら言う。グラス拭きはただの言い訳のように見える。
「新しい店舗を考えているんだ。」
「え?」

私はあまりにも意外な言葉に、返す言葉が見つからなかった。
今までお兄ちゃんとお姉ちゃんで頭の中がいっぱいだったのに、全然突発的な発言がロケット花火みたいに打ちあがった。

「に・・・2号店?雑記帳2号店?」
私は唾をぐっと飲みこんで聞いてみた。

「違うよ。店は自分の手が届く範囲でしかやらない。」
鈴木さんはまだ同じグラスを拭いている。

「じゃあ、ここを改装するの?」
「違うよ。」

鈴木さんがコトリとグラスを置いて、
「ここを閉めるんだ。」
と静かに言った。

瞬間全世界の時計が止まったような、鼓膜がおかしくなったような気がした。聞き間違いかと思った。
「どうして?なぜ?」
「だから、新しい店舗を開きたいから。」
私は自分の手がカタカタ音がするのではないかと思うくらい震えているのが分かった。

「この店を開く時は、まだちゃんと自分が本当にやりたい構想が固まってないような、そんな気がしていて、それで色んなお客さんと、そのお客さんと色々話をしたりして時を記していきたいと思ったから、店名を『雑記帳』にしたんだ。やっと長年練ってきた構想というか、プランが出来上がってきたから・・・・・。」

私の耳に「永遠はない」という誰かの言葉が耳鳴りと共に聞こえてきた。
私は席を立つと、2階のシャガールの絵の前に行きたくて階段を駆け上がった。

「あ?」
2階に上がると、そこにはシャガールの大きな青い絵は無くなっていて、ソファも無くなっていた。
段ボールが数個、まるで引っ越し作業中のように置かれている。
絵のライトもなく、窓から薄明かりが差すだけの暗闇。
私にとって唐突すぎる瞬間シチュエーションだった。

「素子ちゃん?大丈夫?」

また心配そうに鈴木さんが階段を昇ってきた。
「もう引っ越し準備なんだ。私の大好きなシャガールの絵も撤収しちゃったんだね。」

身体中がわなわなと震える。今度は涙も出ない。

「素子ちゃんにはよく手伝ってもらったし、いつ言おうかと思っていたんだけど。最近忙しそうだったしね。」
鈴木さんが震える私の肩を、まるで震えを止めるかのようにしっかりと抱いた。
「ごめんね。」

別に鈴木さんが謝ることではない。
鈴木さんのお店なんだから、ちょっと手伝ったくらいの私にことわる必要なんてない。
ただ、ただ、私が辛いだけだ。

「うー、う、う、う、う。」
私は声にならないような声で泣いた。シャガールがない部屋で、鈴木さんの胸に顔をうずめながら。

「新しいお店って、いつ?」
私は胸に顔をうずめたまま聞いた。鈴木さんの顔が見られない。
「まだ決めていない。」
「場所はここ?」
「まだ決めていない。」
「出来上がったら教えてくれる?」
「たぶん、連絡はできない。」

そうしたら、もう二度と鈴木さんには会えないのだろうか?
もしかしたら、常連だった誰かと偶然にも会えてお店が出来上がったことを教えてもらえるだろうか?そんな偶然があり得るだろうか。

「こんなオジサンのことは忘れて、強く生きなさい。」

私は首を横に振って鈴木さんのシャツをぎゅっと掴んだ。

「十代二十代ぐらいには錯覚しがちなんだよ。自分はこの先何十年も今のままで、環境も永遠にこのままのような、そんな気がしてしまうものだ。しかし永遠など無い。移ろっていく。でもそれでいいんだ。ここから手を放して、新しい人や環境を掴んでいくんだよ。」

鈴木さんが震える私の手を包むように胸のシャツから引きはがした。
私は鈴木さんからその先の言葉を待ったが、もう何も話してはくれなかった。
少し時間がたって、

「私のことを嫌いになった?だから教えてくれないの?」
私がそう言うと、
「もし、本当に次の店を見てみたかったら、コンセプトも全てが今と違ってもいいなら、僕を探して。この雑記帳にたどり着いたみたいに。」
と、鈴木さんは私を再びギュッと抱きしめて、優しく2回唇にキスをした。

もう本当に何も言わない。けれどそれが答えなのだと思った。
いつラスト営業なのかも私は聞かなかった。

それから一か月くらい雑記帳の周辺に近寄らなかった。
もちろん会社の帰りにも寄らなかった。
夜遅くなるとランプの光が洩れる雑記帳は通りで目立つのだが、私は残業で夜遅くなっても、近くを例え通っても視野に入れることをしなかった。

一か月後、会社帰りに駅を降りて雑記帳まで歩いていくと、無機質なシャッターが閉まっているだけだった。
隣には雑記帳の隣にあった古本屋が開いていたので、ここが確実に雑記帳ということは間違いないのだが、閉店とも何も張り紙は無く、看板も無い。
本当にここに雑記帳という珈琲店があって、鈴木さんが店先で焙煎した豆を振っていたのか分からなくなってくる。
あのシャガールの絵も、アールヌーヴォーのランプも、丸メガネの鈴木さん本人も、全てが幻か私の見ていた夢だったような気がしてくる。

ぬくもりも何もない、無機質なシャッターを人差し指でツツっとなでた。
私は踵を返すと、もう二度と振り返らなかった。

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