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小説『雑記帳』より。(2話②)

2話 タロットカードとシルバーグレイ②

「鈴木さん、2階の絵を見に行っていい?」
と私が言うと、鈴木さんはかすかに頷いた。

2階はいつものシャガールの大きな青い絵がかかっていて、真っ暗な中でその絵を照らすライトだけが明るかった。

私は部屋の電気もつけずに、絵の前のソファに座った。
昨日、ここで鈴木さんの頬の皮膚を感じていたのだ。今となってはなんだか夢だったみたいだと思った。

シャガールの絵の中には、青く塗られた女性がいる。この絵のコンセプトは知らないけれど、青い女性は清楚で何だか幸せそうだ。
私はふっとため息をついた。
タロットカードの彼女は、私に二枚のカードを見せた。それは私が今置かれている状態、いや、私の弱さそのものだと思った。救いを目指して転落し、怠惰な悪魔の手に自ら落ちている。

それは今年の春の事だった。

全くの世間知らずの田舎から出てきたような私が、東京都心の学校に通うようになった。駅で困っている時に助けてくれた、シルバーグレイの髪の初老の男性と出会ったのだ。ちょっと俳優のリチャード・ギアに似ている。

私の脳裏に当時のことが映画のように映った。
乗り換えの新宿駅で、満員電車から吐き出された私は学校のバッグを落として中身をぶちまけてしまった。朝のラッシュの中、憐れむような視線と迷惑そうな視線を一心に浴びた。
雑踏の音というのか、人がたくさんいる圧のようなものか、耳鳴りがしてきて心臓がバクバクいっていた。けれど、誰一人手を貸してはくれないし、むしろ散らばった教科書やペンケースは、踏まれたり蹴飛ばされたりしていた。
私は涙ぐみながら散乱したバッグの中身を必死でかき集めた。

「すみません、すみません。」

そう言いながらかき集める自分の声はかすれていく。
その時にシルバーグレイに出会った。何も言わずにスーツの片膝をつきながら床に散らばった教科書やノートを集めてくれた。

「すみません。ありがとうございます。」

私は何度もお礼を言い、恥ずかしさのあまり逃げ出すように乗り換えのホームへ向かった。後ろから声がするように感じたが、もう全く後ろを振り向く勇気などなく、到着した電車に飛び乗った。

学校へ着くと、汚れた教科書やペンケースを拭いたりしていたが、学生証と教科書一冊が無いことに気が付いた。教科書は専門性があるもので、一般的には売っていない。どちらもちょっと紛失すると面倒なものばかりだ。

「うわ、あの場に残っているはずないよなぁ。」

私が言うと同じ講義を取っている友人が、

「駅の忘れ物係に連絡してみたら?」
と教えてくれた。

あの混雑の中、期待は全くできなかった。
朝の一番急いでいる中で、誰かの学生証を駅の係へ届けにいく。当然届ければ自分の名前とか書かされるだろう。電車に乗り遅れるかもと思えば、そんな学生証など届ける価値もないと思う。下手すると変な人に学生証を拾われて悪用されてしまうか、ごみ箱行きか。

まぁ、考えていても妄想していても何も進まないので、私は駅の忘れ物係に電話をした。

「はい、新宿駅お忘れ物預かり所です。」

電話に出た女性は澄んだ声でとても丁寧な対応だった。しかし残念ながらもちろん、係には届いてはいなかった。

「仕方ないよ。学生証は再発行してもらって、教科書は購買で申し込む?センターに余りがあれば買える可能性かるかもよ?」

友人はうつむきっ放しの私の背を撫でて、慰めようとしてくれている。とりあえず作り笑いだけでもいいから心配かけないように「大丈夫」と言いたいところだったが、結構メンタル的にも表情を作ることもできない感じだ。

結局下を向いたまま授業を終えて学校を出た。まだ入学間もないのに、ショックが大きすぎてフラフラする。

「すみませんが、今朝駅でバックを落とした方ですよね。」

学校を出たところで、いきなり声をかけられて振り向くと朝のシルバーグレイがいた。あまりに唐突すぎて、予想もしていなく、私は馬鹿みたいに口をぽかんと開けて相手を見てしまった。

「あ、朝の・・・・。きちんとお礼も言わずに失礼しました。」
と、我に返って丁寧に頭を下げた。

すると、下を向いている私の目の前に、学生証を乗せた教科書が差し出された。
「あ、ええ?」

拾ってくれていたのか。
もしかして、あの時後ろから声がしたのは、この人だったのかもしれないと思った。あの混雑の中、通勤急いでいるだろう中を拾って、学校まで届けてくれるなんて、世間はまだまだ救いがあるのかもしれないと思った。
私はホッとしすぎて涙がグワッと盛り上がってきた。

「朝、大変だったね。」

シルバーグレイは私の頭を子どものようになでながら、

「失礼かと思ったけど、学生証を頼りに来てみたんだ。早く届けてあげたくて。何となく、君が泣いているような気がしたんだ。初めての電車通学なのかな?慣れていないみたいで可哀そうだったよ。」

と柔らかな笑顔で言った。声は耳に心地よいくらいの低音で、でも一言一言が聞き取りやすい。

「本来ならお礼を何か・・・・・。」

私は戸惑った。何しろ、お財布は朝の時点でちゃんと拾っていたが、中身は(元から)ほとんど入っていない。シルバーグレイはそれを見透かすようにククッと笑った。

「拾ったものの一割って?気にしないで。それより、お礼というならご飯を一緒に食べてもらえるかな。これからどう?実は朝ご飯を食べないで出て、昼も休み時間返上で仕事していて、お腹ペコペコなんだよ。」

私はうんうんと頷いた。
知らない男性といきなり食事に行くというのは、私としては気が進まないところなのだが、朝親切にして頂いたわけだから断るというのも不調法だ。
それに、シルバーグレイの声や表情が優しくて、あまりに爽やかすぎて悪い人には思えなかった。

「何が食べたい?今の若い子は、何がいいのかな。」

シルバーグレイは歩きだしながら考えているようだ。
私はその横顔をちらっと見ながら、自分のお財布の中身が立ち食い蕎麦くらいしか食べられない小銭しか入っていないのを想像していた。
かといって、日を改めてというのも面倒だ。
日を改めてということは、お互いの連絡先を知らなければいけない。スケジュールも合わせなければいけない。大学に入りたてで、今の自分にはそんな余力がない。それに、日を改めたところでお財布の中身が増えるわけでもなかった。

「だから、お財布の中身は気にしなくていいよ。こちらはご飯食べるの付き合ってくれるだけでいいんだから。一人で立ち食い蕎麦っていう選択肢もあるかもしれないし、カフェのサンドイッチということもアリかもしれないけれど、味気ないじゃない?」
シルバーグレイは私をチラリとみた。

「好き嫌いはある?」
私は頭を横にブンブンと振った。シルバーグレイが笑った。
「いいね。好き嫌いある子だと面倒でね。ああ、お店の選択にね。」

それは私もそうだ。大学の新しい友達でランチとかいくと、
「どこでもいいよ、合わせる!」
なんて言っておきながら、
「私、あれもこれもダメなんだよねー。食べられない人なの。」
とか、
「今日はこれ食べる気分じゃないな。」
なんて平気で言ってくる。当然店選びは振り出しに戻る。
私は思わず吹き出してしまった。

「どうしたの?」
シルバーグレイが横で歩く私の顔を覗き込んで言った。

「ううん。私、肉でも魚でも、マックでも立ち食い蕎麦でも、なんでもOK。ええと、お酒以外はね。」
お酒はダメ。女子としか飲まないって決めている。厳密に言うと、コーヒーもNGだ。雑記帳でしか飲まない。

「よし、新宿乗り換えだったよね?じゃあ、新宿まで行って僕の知っているお店でいいかな?」

私たちはやや混み始めた電車に乗り込み、新宿で降りた。電車の中で横目で見ていると、やっぱりなかなかハンサムだ。これがあと十歳は若かったら良かったのに、なんて失礼なことを考えてしまった。あくまでもシルバーグレイは学生証の恩人なのだ。

「新宿もこっちの方は古い建物がまだ多いね。」

シルバーグレイが、私が知らない新宿を説明しだした。
学生の頃から新宿は乗り換え駅で、ご飯を食べたりバイトをしたりしていたらしい。今から行くお店も、学生時代からのお馴染みで美味しいらしい。でも、それが和洋中のどれなのかを言ってくれない。

「うーん、説明難しいんだよね。でも、今流行のバイキングとかではないんだけど。」

シルバーグレイがレトロな雰囲気の喫茶店の前で足が止まった。その時、シルバーグレイが私の歩調に合わせて歩いてくれていることにようやく気が付いた。
優しい。さりげない優しさ。

「ここ、学生の頃の僕のご飯食べる場所。今もたまに来るけどね。」

カランカランという、これまたレトロな響きのドアベルの音を聞きながら店内に入った。カウンターの中にはお爺さんマスターがいる。

「やあ、今日は女の子付きかい?珍しいね。」

お爺さんマスターがホッホッホと笑っている。シルバーグレイが学生で通ったというのだから、相当な年齢のお爺さんのはずだ。髪の毛は真っ白で顔の皺はすごいが、背筋はシャンと真っすぐでそこだけ年齢を感じさせない。

「カワイイ子でしょ?ランチに誘ってきたんだけど、若い子ってどういうのがいいのかなぁ。」
とシルバーグレイが言うと、お爺さんマスターは、

「じゃあ、お前さんがよく学生の時に食べたのにしてあげようか。」
と受けあった。

お爺さんが私にニコリと微笑返したが、何を作ろうというのかは言わない。出てきたのは、オムライスと唐揚げだった。言わないからなんだろうと心配してしまったが、思っていたより普通な結果だなと思った。

「チキンライスと唐揚げ。」
と自分で言っておきながら笑ってしまった。なんか一瞬ダジャレみたく思えたのかもしれない。別に変な組み合わせでもないのに、ツボに入ったみたいに笑ってしまった。

「素子ちゃん、よく笑うね。」
とシルバーグレイは嬉しそうだ。

私は今朝のアンラッキーな出来事と憂鬱を吐き出すように笑った。笑ってしまうと胸のつかえが降りて、オムライスをあっという間に食べてしまった。オムライスは丁寧に作られていて、卵のプルプル感が素晴らしかった。
シルバーグレイは話しやすくて、聞き上手で、話が弾む。友達以外でこんなに話すのは久しぶりだった。

「あー、楽しいね。こんなに楽しいのは久しぶりだよ。仕事も満員電車も明日頑張れそうだ。」
シルバーグレイが言うので思わず、
「私も!私も頑張れる。」
と言ってしまった。
「また、会えるかな?」
シルバーグレイが手を差し出す。握手?その手の平は広くて暖かい。会ってもいいなと思わせてくれる。食事が終わると、メールアドレスを交換した。

「こんなオジサンだけど、素子ちゃんみたいに楽しい友達ができると、日々が楽しくなりそうだ。元気になれる。よろしくね。」

初めて会った男性と、時間が経つのを忘れてしまいそうなほど楽しく過ごした。
わりと警戒心が強すぎて、友達に「重い」と言われるくらいの私なのに、思いがけない楽しさに乗ってしまった。

シルバーグレイと別れて電車に揺られて自宅に帰り、自分の部屋で荷物を降ろして着替えているとメールが届いた。
メールはシルバーグレイだ。
その日のうちにメールで次を誘うなんて、きっと女の子を誘い慣れているのだろう。私はメールを受けて嬉しい反面、そんな自分を冷めて見ている自分を自覚していた。

2回目に会った時は、新宿御苑にピクニックということになった。
シルバーグレイがどこに住んでいるかを知らなかったが、とりあえず二人とも新宿は通るということは分かっていたので、定期を持っているから新宿で会おうということになったのだ。

私の頭の中には、映画『プリティーウーマン』が浮かんだ。
リチャードギアとジュリアロバーツが、公園の芝生の上で靴を脱いで寛いでいるところだ。
そこまでロマンチックでもないけれど、このシチュエーションだけでも私を満足させるには十分だった。シルバーグレイはレジャーシートをバックから出すと芝生に広げ、靴を脱いで上がるよう私を促した。

「はい、飲み物。それから、そこで買ったんだけど、つい美味しそうで。」
と、私の手に温かい紅茶とたい焼きを置いた。
「たい焼き?」

ちょっとリチャードギアには遠い選択だけど、まぁいいかなと思ってシートの上で食べ始めた。
シルバーグレイはシートの上でゴロンと横になると、仰向けになって空を見上げている。

「いいなー。こうしていると命の洗濯って感じがするよ。素子ちゃんもこうやって空を見てみなよ。」

言われて私も仰向けになって空を見上げた。誰かが言っていたが、悲しい時に空を見上げてはいけないらしい。
でも今、空を思いっきり見上げていて、爽快感しかないのだから、今の私に悲しさはないのだろう。横を見ると空を見上げていると思ったシルバーグレイが目を閉じている。まぶしいのかもしれない。

そのままの体制で手だけがそっと私の頭に触れて、ポンポンと軽くなでた。
落ち着く。なんて居心地がいいのだろう。またしても時間が経つのを忘れてしまいそうだった。しかし今日はシルバーグレイは早めに切り上げた。

「申し訳ない。今日は明日の仕事の支度が残っているから、帰らないといけないんだ。本当は夕飯も一緒に食べたいんだけどね。」
「仕事持ち帰っているの?」
「いけないんだけどね。まぁ大学のレポートと思えば大した仕事じゃないか・・・。」
と言われたところで、自分も課題があったことを思い出した。シルバーグレイは私の顔を覗きこんで、
「もしかして、課題が残っているのかな?僕と同じ?」
と、私の頭をまたいい子いい子して、悪戯っぽい顔をして笑った。

そのまま帰るのはお互いなんだか味気なくて、またレトロな喫茶店で今度はマスターお手製のアップルパイを食べて帰った。

それから、結局度々会うようになって、楽しい時間を過ごすようになった。ランチやカフェから、ディナーを共にする時間まで、さらにまだ帰りかねてカラオケに行ってみたり。
私が美術が好きだと言うと、美術館にも二人でいくようになった。

最初は全くの友人としてだった。傍から見れば二人で歩くと親子のようだけど、でもあくまで友人という会話と距離感だったと思う。

今は・・・男女という位置にいる。どこまでも友人と言う距離感の平行線を歩いていくのかと思ったが、ある雨の待ち合わせの日に、その距離感は崩れてしまった。

「素子ちゃん、雨降ってきたなら違うところで待っていても良かったのに。」
待ち合わせの場所で、私は急に降ってきた雨でびっしょりだった。家を出てきた時は晴れていたから傘も持っていない。近くにカフェや雨宿りできるところもない。

「ここを待ち合わせにした僕も気が利かなかった。ごめんよ。風邪ひいちゃうよね。」

別にシルバーグレイのせいじゃない。誰も朝の青空からバケツをひっくり返したような雨が降るなんて分からなかっただろう。朝の天気予報だって今日は洗濯日和だって言っていた。

「とにかく、それじゃあ身体が冷える一方だ。」

凍える私を抱きかかえるようにシルバーグレイはあるビルの一室に入った。

「ランドリーサービスをお願いします」
お風呂にお湯を張る音がする。

「さぁ、素子ちゃん。しっかりお風呂で温まって。その間に服を乾かしてもらうから。お風呂から出たらとりあえずこれを着ていて。」

朦朧とする中を服を脱いで浴槽に入った。
私が浴槽に入っている間に、シルバーグレイは衣服を乾燥に出したようだ。身体が温まると少しずつ冷静になってきた。

ここはどこだ?

私は浴槽を出てお風呂のドアを開けてみた。ガウンが置いてある。どうやら下着もみんな持っていったらしく、ガウンの中はパンツも何も着ていないということになった。

「恥ずかしい。これじゃお風呂から出られない。」
どうしようと思っていると、ドアをノックする音がする。

「素子ちゃん、大丈夫?温かい紅茶を用意したよ。」
シルバーグレイがとても心配そうな声で言っている。そうだ、すごく心配かけたと思う。ここまで運んでくれたんだ。

「すみません。心配かけて。」
私はドアからそっと顔だけだした。

シルバーグレイが手招きしている。私は足をなるべく閉じたまま、ちょこちょこと歩いて紅茶があるテーブルに座った。

「温かいうちに飲みなさい。今、服は乾かしてもらっているから。」
私は声もなくうんと頷いた。
「心配したよ。全く無茶だな。」

シルバーグレイが椅子の後ろに回り、背後から私を包むように抱いた。
温かい。
大きな手のひらが私の頬と、首筋を這うように撫でて、私の顔を振り向かせると唇を重ねた。
そのままガウンの裾から温かい手が私の肌を全身くまなく、まるで全てを調べるかのように這っていく。

お姫様抱っこをするように、私をベッドへ運んで、
「我慢限界だ。こんなに可愛い君を放っておけない。」
と、シルバーグレイは私を抱いた。

間抜けな話だが、そこで初めてこの場所がラブホテルだと気が付いた。まぁ、ランドリーサービスがあるホテルで良かった。
シルバーグレイは私にとって初めての相手だったが、特別感はあまりなかった。初めての私をいたわるように優しくはしてくれたが、裸で一緒にいることが意外なほど自然すぎて罪悪感も湧かない。

それから後の日々には裸の付き合いは毎回で、シルバーグレイはどこまでも優しく、繰り出す技を新鮮に思いながら二人で楽しんできた。
まるで二人でゲームで遊んでいるみたいに。
シルバーグレイはよく私の身体をくまなく触った。その手の感触は私の存在そのものを触れているみたいで、私はむしろ心地よかった。

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