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小説『雑記帳』より。(1話②)

1話 私と鈴木さん②

「鈴木さん?」

私が小声で声をかけると、鈴木さんは人差し指を口元にあてて「静かに」と手を軽く振った。

客は男女の二人。常連ではなさそうだ。たった一つのテーブル席に座っている。
二人の間のテーブルの上の空気が、まるで火花のようにチリチリしている。良い雰囲気とはとても言えない。どうやら別れ話のようだが、男性の方が分が悪そうだ。

突然女性がグラスの水を男性にぶちまけた。水は男性の顔を直撃したが、顔をそむけただけだった。避けもしない男性の態度に、ますます女性は鬼のような形相で男性の左頬に平手打ちした。

「ガタンッ!」

それでも足りないのか女性は椅子を倒す勢いで立ち上がり、テーブルの上のランプのアームを掴んで振り上げた。

この雑記帳のランプは同じものが一つとして無いアールヌーヴォー調のもので、その女性が手に掴んだのは私のここでの2番目に気に入っているランプだ。
私は心の中で「やめて!」と叫んだ。
その女性が次にすることは、そのランプを男性に打ち下ろすか、いや、ランプをテーブルに叩きつけるかだろう。でも私の身体は凍ったように動かない。

止めに入れない。「怖い、怖い」ただその言葉が私の頭の中をぐるぐると回っていた。私はこういう所謂修羅場がひどく苦手だ。争っている様子を目の前にすると息が苦しくなって、周囲が遠く感じてくる。何かのフラッシュバックが脳裏に映る。

その時、女性が振り上げたランプを持つ手を鈴木さんが制した。カウンターの中にいたはずなのに、いつの間に女性の横まで移動したのだろう?

「美しいランプでしょう。」

鈴木さんは中性的で素敵な微笑で女性に話しかけた。柔らかな微笑だが、その手は力強くランプを振り上げた手を握っている。

「このランプは、同じものは一つとしてありません。あなた様もまたこの世に同じく。」

女性のランプを振り上げた手がかすかに震えているのが分かった。テーブルに彼女の頬から滑り落ちた水滴がポタっと音がするのと、手を降ろすのは同時だった。

「あ。」

席の向かいの男性が我に返ったように小さな声を上げ、自分の財布を出すとテーブルに千円札を置いて逃げるように店を出て行った。

私はようやくそこで椅子から立ち上がることができた。鈴木さんは二人分のカップを手にカウンターに戻り、

「テーブルを拭いて、グラスを下げてもらっていいかな。」

と、私に言った。私ははじかれるようにダスターを手にして女性が座るテーブルの前に立った。

「し、失礼致します。」

と、言ったはずだが声になっていない。
濡れたテーブルを手早く拭き、お冷が入っていたオシャレな小さなグラスを下げた。
鈴木さんは新しいコーヒーを入れると女性のテーブルに置いた。

「当店自慢のマシンで入れたエスプレッソです。どうぞ、ごゆっくりなさってください。」

鈴木さんは女性の顔は見ずにカウンターに戻った。そして、いつもそうするようにエスプレッソを入れた出がらしで薄いエスプレッソを入れた。鈴木さんは客のエスプレッソを入れるといつもそれを飲んでいる。

「これ2階で飲んでいていいよ。」

鈴木さんの目が微笑んでいる。二番煎じのエスプレッソ。店主がいつも飲んでいても、客でいる以上は絶対に飲めないはずだったもの。

「うん。」

私はまた2階に上がってマルク・シャガールの前に座った。

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