君がダサいと思っているのは多分「長文タイトル」じゃない気がするんだ

 「自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述」(The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner:Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque;Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates)の話した!?

 「長文タイトル」の話をするとまあだいたい出てくるだろうこの文言(えっ見たことないって?それは地域差ということにしておこう)に対し、多分君はこういう。「していないわ!」
 
まじめな話をしようとして茶化されることほど腹が立つことはない。
 しかし、茶化された上で何が違うのかいいかえせない場合、そこには自明なことがある。

 問題にしている部分が間違っているのだ。

それ、本当に「長文」ですか?

 つい最近こんな話が回ってきた。

Amazonはこちら。

 読んだら面白かったのでオススメである。

 「人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル」
 これに対して、「やっぱり今は何でもかんでも長文タイトルにされるのか……(意訳」という呟きが回ってきた。

 ……これ「長文タイトル」か?

 「長」の部分に目を向けて、たかだか22文字程度短いわハハハみたいなインフレマウント合戦の話をしているのではない。
 気になっているのは、「文」の方だ。

文法の話のおさらい

 まず、学校の英語の時間に立ち返ろう。
 
 文章というのには、その「型」、即ち文型というものがある。
 多分この記事を読んでいるあなたもSVOCぐらいは聞いた覚えがあると思う。

 S:主語。
 V:述語。
 O:目的語。
 C:補語。

 これらを組み合わせて成立するものが「文」である。

 主語+述語=(主語)は(述語)する。
 主語+述語+補語=(主語)は(補語)である。
 主語+述語+目的語=(主語)は(目的語)を(述語)する。
 主語+述語+目的語+目的語=(主語)は(目的語)に(目的語)を与える
 主語+述語+目的語+補語=(主語)は(目的語)が(補語)するのを(述語)する。

 これらが英語文章の訳し方の基本である。

 一方日本語の文章はそこまで厳密ではないが、含まれる述語の数によって単文、重文と分けるという考え方が一般的だ。

 述語とは、文の中で、どうする・どんなだ・なんだ・ある・いる、などを意味し、主に文末で主語について具体的な説明を行う部分のことだ。

 日本語の「文」の形には、「述語」が必要なのである。

 さて、それで行くと、上のタイトルは「文」なのか?
 答えはノーだ。

「人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル」
 これには述語が存在しないため、文章の形式をなしていない。
 すこし修飾語が多いが、これ全体で一つの名詞となっている。

 なんか近い雰囲気を持ってるタイトルの作品であるなら、「陽気なギャングが地球を回す」の方がまだ主語・目的語・述語揃っていて『文章』の形になっている。

 長文タイトルだから問題だ扱いされていたものが、そもそも長文どころか「文」の形式になっていない
 つまり、『長文』であることが問題ではないことの証明だ。

(念のためもう一度言っておくが、上記二作は「悪い」例として出している訳ではない。「長文」ですらないものや、「文」としてよく出来ているものの例だ)

 『文』である必要すらないものを『長文タイトル』と呼び続けるのもおかしな話だが、この記事でも問題点洗い出しまではこう呼び続けることにするので、ややこしくなるが以下お付き合い願いたい。

それではどこが問題なのか?

 『長文タイトル』だから問題なのではないことはわかった。
 では『長文タイトルではないタイトル』に問題はないのか。
 無論、否だ。長文タイトルにならないようにしても大きい問題はある。

 ここで実物を「悪い例」として挙げるのもなんなので、
 少し、架空のタイトルで考えてみよう。

縁下転墜譚

 たぶん内容の予想はつかない。
 そう、『悪い短文タイトル』は内容がわからないのだ。

 これを『長文タイトル』化してみよう。

補助魔法しか使えないので勇者パーティから追放された縁の下の力持ち、魔王軍に転職したら最強の幹部キャラとして重宝される

 ハイ、数百倍わかりやすいですね。

 このわかりやすさは『長文タイトル』のメリットとして非常によく語られる。

 しかしこのわかりやすさには、大きな欠点がある。

 マイナスの要素もわかりやすくなるのだ。


 現代の長文タイトルブームは「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」(以下、「俺妹」と略す)から始まった、という説は強い(筆者自身はそうではないと思っているが)。

 「俺妹」はラブコメディである。
 コメディというのは、(少し危ない言い方だが)あまり「格好つけなくてもいい」ジャンルである。

 タイトル変更の成功?例として語られるものの中で、
 「這いよれ!ニャル子さん」の賞投稿時のタイトルが「夢見るままに待ちいたり」だったことはそれなりに広く知られていると思う。
 旧タイトルは元ネタ意識であることは分かる人には分かるものの、硬く真面目すぎてコメディだということが伝わりにくい。
 コメディのタイトルは、多少柔らかい方がいいのだ。

 柔らかいタイトルというのは、言い換えれば口語調のタイトルといえる。
 かしこまったり格好つけたりするような言い方ではなく、
 格好つけずに友人相手に普段の?会話の中で使うような言い方だ。
 友人相手のような言い方なので、距離の近さを感じさせる。

 『長文タイトル』は「文章」というよりも「口調」なのだ。

『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』は、実際は口語調タイトルなので「長文タイトル」だと思われたのだろう。

(ここで色々勘違いされた反応が多かったのでもう一度言っておくが、現在タイトルあげてアマゾンへのリンクを張っている作品群はオススメ作品の方である。具体的な悪い例をあげてケンカを売るような度胸は私にはない!)


 その一方で、最近(と言う程ではもう無いが)の『長文タイトル』の主な戦場は「ファンタジー」である。

 「ファンタジー」という非日常に対して求めるものは、柔らかさよりは格好よさの方だと思うのだけどもどうだろうか。
 そこに口語調という「柔らかさ」をお出しされると、ちょっと期待外れに思う人もいるのではないだろうか?

 無論、別にコメディでやる気であるなら柔らかくたって構わない。
 しかし、現在『長文タイトル』をつけているファンタジーの多くは、あまりそういう印象を受けるようなものではない。
 悪い例の晒し上げになってしまうので、具体例はあげない。

 現在『長文タイトル』をよく使っているファンタジーは、主人公が特別な能力をゲットして無双したり成り上がったりしていくタイプのものだ。

 イキリだとか中二病だとか意識高い系とかいう言葉があるように、自分の強さ賢さ格好よさをひけらかす行為は、率直に言って格好が悪くなりがちである。それが犯罪行為違法行為ズルい行為などなら尚更に。

その「格好悪さ」「わかりやすく」してしまった結果が
『長文タイトル』に感じる忌避感の正体だ。

 『長文タイトル』であることが悪いのでは無い。

『格好悪さが伝わって来るタイトル』が悪いのだ。

 自分が手に入れたチート能力がどんなにすごいか、
 自分のことを認めない奴がどれだけ見る目ないか、
 自分を追放した奴らがどんな感じに破滅したか、
 その辺を強く押し出しているようなタイトルは、
 『長文タイトル』ではなく『自慢タイトル』と呼ぶ方がふさわしい。

 それを口語調の距離の近い言い方で表現してくるので、
 知らない相手が馴れ馴れしく自慢してくるように見えるのだろう。

何故『長文タイトル』は増えるのか?

 一般的には「その方がわかりやすいので手に取ってもらえるから」と言われる。
 知り合いのラノベ作家(胡散臭い響きだが事実なので仕方がないだろ!)からも書籍化にあたり長文サブタイつけた理由として「その方が売れるって編集さんが言ってた!」という裏話を聞いたぐらいなので、おそらく出版界隈内部もそういう認識なのだろう。(結局売れたかどうかについては流石に幾ら知人相手でも聞くべきでないことがあるので記せないのをお許しいただきたい)。

 しかし、長文タイトルの本場はWebサイト「小説家になろう」である。
 「小説家になろう」は、完全なアマチュア投稿サイトである。
 アマチュア──悪い言い方をすれば趣味の素人──たちが、みんながみんな「売る」ためのことをやっていると思うのは、少し早計過ぎないだろうか?

 なろうランキングのUIであらすじを見るためにはクリックしないといけないので、その手間を払いたく無い人にまでぱっと見で内容をわかってもらうためにはタイトルに詰め込まなければいけなくなったのだ……という説もある。
 けれど、それも広義の「売る」ための努力だ。ランキングに売り込むことを考えてる人がいない訳ではあるまい。けれど、それ以外の気楽に趣味でやっている人までもが当たり前のようにしているようなものと思っていいのか?

 『長文タイトル』には、「わかりやすさ」の他に、もう一つ甚大なメリットが存在している。

タイトルをつけやすいのだ。

 実際に何かを書いて発表した人には分かるが、タイトルをつけると言うのは難しい。場合によっては本文を書く以上に難しい。
 (上の架空のタイトルをつけるのがこの記事で一番苦労したところだ)
 その点、『長文タイトル』はコンセプトや初期シチュエーションをそのまんまタイトルにするだけで成立する。めちゃくちゃ楽だ。

 なので「内容をわかりやすく伝えたい人」も「タイトルをつけるのが難しいので簡単につけたい人」もこのコンセプトや初期シチュエーションをそのまんまタイトルにする形の『長文タイトル』を書く。結果増える。

 しかし、これにも一つの難点がまた存在する。

長文タイトルが生み出す錯覚


 「最近は長文タイトルばっかりで〜〜」と思っている人に一つ問いたい。

あなたはその長文タイトル作品、何作品読んでます?

 実際に数え上げて見て欲しい。
 おそらく、「思ってたよりも少なかった」という気持ちになると思う。

 それどころか、中身を読んだ記憶がないものに対して悪印象を抱いていたことにも気づくことができると思う。

 何故そう感じてしまうのだろうか?
 あれだけ沢山の長文タイトルを見かけてきたはずなのに?

 その答えはこれだ。

一部の『長文タイトル』は
読まずに読んだ気にさせる効果があるからだ。

 何故タイトルの1行しか見たことない話を、読んだ気になってしまうのか。

タイトル出落ちのせいだ

 タイトルでオチているとはどういうことか。
 タイトルで紹介されている話の中身が、そこで話が終わっているように見えて、そこから派生するものが浮かばないということだ。

 即興で作った例をあげよう。

異世界転生した俺、チート無双で魔王軍をあっさり全滅させました!

 タイトルの時点で「どうなった」かまでが言われてしまっている。
 話が一旦そこで完結しており、この先の展開を示唆しない。

 『長文タイトル』と呼ばれがちなタイトルに使われがちな「転生」や「追放」・「婚約破棄」などは開始地点の状態なのだ。
そこから「向かう方向性」を示すことができなければ、そこで実質的にオチているに等しい。

 無論オチをタイトルで示していても「そうなるまで」の過程が気になることも当然あるといえばあるのだが、そういうのはちゃんと「上手いタイトル」になるので、下手なタイトルの話をしている今はこう忘れて欲しい…。

 タイトルだけで本文を読んだ気にさせてしまう。
 実際に本文が書かれない作中作とかならそれは非常に有効だろう。
 しかし、実際に本文を読んでもらいたい場合には……どうだろう?

 読んでもいないのに読んだ気になる。
 それは「印象に残る」ということであり、
 「語ってもいい気になる」ということでもある。

 なので、読んでもいないはずの『長文タイトル』作品について、
 まるで読んで面白くなかったかのように語ることに疑問を持たずにやってしまえるのだ。

まとめ

・悪い『長文タイトル』と呼ばれるものの問題は、『長文』であることではない

『口語タイトル』が馴れ馴れしさを感じさせている。

『自慢タイトル』が格好悪さを感じさせている。

『出落ちタイトル』が読まずに読んだ気を感じさせている。

 この記事を読んだ人が何かこううまくない感じのタイトルを見かけたときに『長文タイトル』ではなく、『口語タイトル』『自慢タイトル』『出落ちタイトル』の方を疑って使ってくれれば幸いだ。

余談

記事が予想外にバズってしまったのでプログラマーとして制作に協力しているサーチエンジンの広告でもしておきます。開設を楽しみにしてくれると嬉しいな。

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