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川端康成伊豆の踊子XV

伊豆の踊り子だとぉ!?

 謝罪
 筆者はシンフォギアシリーズをGまでしか見てません。あんまり僕には合いませんでした。

 ただ、雪音クリスのビジュアルが好きなだけだったんだ……。

伊豆is伊豆

 伊豆の踊子を初めて読んだのは中学の頃であり、ノーベル文学賞とった作家の作品なんだから読むかーぐらいなノリだった。初めて読んだ時の感想としては「なんなの?」だった。
 コミュ障が昔の日本特有の空気感の中でウジウジしてるけど、なんかたまたまさっぱりした。
 その程度の認識だった。誤解を恐れずに言うと日本のテクスト群の「じめじめ・じっとり・陰鬱」な空気感はすごい好きなのだ。
 ホラー映画の「仄暗い水の底から」のようなあの雰囲気。明るい未来はなく、絶望の落とし穴までのんびり歩いてしまい、気がつくと吸い込まれて這い上がれなくなる陰鬱な空気感とでも言おうか。
 その点で僕は夏目漱石の「心」は大好きだ。親族の裏切りに遭った先生が親友のKを裏切る。そして、Kの死後に先生は挫折の中で再起できずに命を絶つ。うる覚えなのだが、「どこからか黒い大きな手が私を掴んで苦しくする。「放せ。なぜこんなことをする」と言い返すものも「わかっているくせに」と心を折られてしまう」みたいなテクストが本当に好きなのだ。母の死後、何かに打ち込もうとするたびに似たような経験をしたからだ。この時に夏目漱石、というよりも夏目金之助にものすごく親しみを覚えてしまった。
 さておいて。
 「伊豆の踊子」を読み直したのは今から四年前。僕は金銭的に少し遊べるならばブックオフや古本屋をめぐる癖がある。岩波文庫のちゃんとした文庫本はなかなか高いのだが、状態が悪いものならば110円で買える時がある。
 なんならば、神保町に行こうものならば当時出版されたもののレプリカも数百円で買える。大学時代に書誌学の講師に熱弁を振るわれ、そのような見た目にも興味を持つようになった。
 またしても脱線を戻して。
 川端康成のテクストにおいて優美と私が思うのは風景描写や暗喩だと思っている。有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」においてはその説明に最適と考えている。
 国境の長いトンネルの抜けると雪国だった。これは日本人以外に伝わるかは少し分からないが、日本人であり雪国に親族がいる僕には映像で再生される。そして、夜の底が白くなった。
 --トンネルを抜けると車窓から外を見ていた自分には、月すらない真っ黒な夜闇と雪しか見えない。
 と受け取った者と
 --遥か上空からしんしんと静かな夜の中でトンネルを見下ろしていると列車が走っていた。
 と受け取った者と。大学の講義ではこの二つで解釈が分かれていた。僕は後者だった。映画が好きだからか、基本的に小説から読み起こした情報は三人称の映像で思い浮かべてしまう。
 ただ、講師が言うには「真っ暗な闇の中で対比のような白い雪。その中にひとつだけ動くのは列車というのはみんなのイメージの共通点だ」ということだった。
 文学の柔軟性、テクストの公約数的な愉しみはここにあるのだろう。というよりも、主観的にテクストを映像化するのは東洋的で神の視点から映像化するのは西洋的、みたいなことをあの講師は言っていた気がする。
 ぶっちゃけ、そこはどうでもいい。
 個人的に伊豆の踊子は、現代では捨てられた作家論で読むと面白いテクストだと思っている。というのも、「骨拾い」を読むと川端の身の上とそれに対する枯れながらも熟しきれてない青々さは読み取れるからだ。ドライフラワーを作るかのように青くも瑞々しさをなくした川端のテクストは、水面を流れるだけの枯葉を想起させる。
 そんな流浪の枯葉となった彼が学生の時分の休みに踊子の一団とちょっとした交流をする。その中で無くしたはずの血の熱さが身体をまためぐる心地を覚える。
 踊子たちが「いい人ね」「ええ、いい人よ」と話をしていてそれが耳に入る一間がある。僕はこのシーンを改めて読んだ時に思わず落涙した。果たして、冠婚葬祭の葬の名人であり喜怒哀楽の乏しいながら若い男に人としてのぬくもりはあるのだろうか。
 川端の端的に乾いた文体は、そんな醜い自分と距離を置くためのメソッドにも僕には感じてえた。正直、古くさい作家論で想像の枠を決して超えるものではない。そこに関しては深く論ずる気も無ければ、まだ学びの中の後輩諸君には影響を受けてほしくはない。しかしながら、晩年の川端の行動を否定したくない気持ちが僕個人にあるのは記しておく。
 さておき。
 もう一つは東京へと戻る便で「この婆さんを届けてやってくれ」との頼みを快く引き受けて、知らぬ学生のマントに包まれたり人目を憚らず涙を流したり。この辺りはおそらく胸が詰まるものの爽やさを感じた人が多いだろう。川端の心の隙間をほぐし、そこに差し入れるかのような、淡々としながらもシンプル故に心に響く文筆は素晴らしい。
 

 私見だが、テクスト論的に考えると伊豆の踊子は書生の再生の物語といえるだろう。死者の四十九日の果てにが如く、書生は伊豆を旅してかつての自分にあった感情の処理を為す。
 踊子の一団は村のパイを得ることはできない。なので、疎んじられることが突然の扱いである。果たしてそこに当時の学生が共にいることのミスマッチは少し調べれば異様なほどだとわかる。書生自身もそこは分かっており、学帽などを持ち歩いていることは一種の階級意識が垣間見える点だろう。
 だけれども、階級差があることは悩みや生活層が違うということでもあろう。いわゆるスーパーエリートと庶民とではそもそもの生活のレベルが違う。若者向けに砕けた表現をあえて使うが、これは言うなれば手慰みなので特に批判される謂れもなかろう。ただ、文学生が誤ってこんなものに目を流しているのならばスマホを置いて教授の研究室に遊びに行けと言いたい。

 本当はもっと色々と学んだはずなのだが、実家に「捨てるな」と残した大学時代のノートや書籍は全て葬られている。可能ならばまた大学に通いたいものだが、それは老後の楽しみにでもしようかと思う。


若者よ!歳とると目が悪くなって長時間の読書がキツくなるから若いうちに読め!

おわり

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