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夢を見る山 -千葉県木更津市 太田山について-

 千葉県の木更津市に、太田山という場所がある。JR内房線木更津駅から10分程度東へ歩いたところにあって、春は桜がよく咲いて地域の人々の憩いの場となる。僕は少し前……と言ってももう10年くらい前になるが……。あの山をよく見ていた時期があった。

 この山について、街の方はいろいろな話を知っている。なんと最初は神代まで遡るらしい。日本武尊東征の折、相模国から上総国まで渡る必要があった。しかし船で渡ろうとしたところ海が荒れてしまい、日本武尊一行をひどく苦しめた。

 何とかして波を治めなければならない。同行する妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)はそう思い、自ら海に身を投げて海神を鎮めることにした。彼女の献身によって一行は無事に上総の地に上がることができたが、日本武尊の元に残ったのは数日後に海岸に打ちあがった彼女が来ていた服の袖だけだったという。

 日本武尊は非常に悲しんだ。弟橘媛が沈んでいった海が良く見える太田山でしばらくの間過ごし、自分の妃を想って歌を詠んだ。

君去らず 袖しが浦に 立つ波のその面影を みるぞ悲しき

 この歌の「君さらず」が木更津と君津、「袖しが浦」が袖ヶ浦という地名になったと言われている。木更津市民はこの話をよく知っており、エピソードを町おこしに使ったり、果物のブランド名や日本酒に歌を借りたりした。

 僕自身も神代の夢のようなおとぎ話を始めて聞いたときは、なんだか不思議な気持ちになったものだった。太田山の存在自体は知っていたが、見た目はどこの街にもあるようなただの小山で、何か特筆すべきことがあるとはとても思っていなかったからだ。日本武尊はきっとこの太田山の上で、妃を夢にまで見たに違いない……そんなことを考えた。

 だが、太田山で夢を見たのは日本武尊だけではなかったということが、後々分かってきた。先の大戦で戦況が悪化する中、帝都東京へも度々空襲が起こるようになっていった。これを対策するため、太田山には大日本帝国軍により高射砲が設置されたのである。陣地を設置するために太田山には高射砲だけではなく、防空壕が掘られてある程度形が整えられたらしい。

 「撃っても撃っても、当たったところを見たことがねえ」

 街のお年寄りがそんなことを話していたのを聞いた。木更津は国際情勢が悪化していく昭和11年に海軍の航空隊が置かれ、「軍都」としての機能を果たすようになっていった。昭和16年には航空廠が設置されて人口が急増して戦略上重要な場所にもなっていき、防空が重視されて火災防止のために家をどかして道路を広げるといったこともあった。高射砲もほかの街よりは置きやすい環境にあったことは想像に難くない。

 昭和20年の東京大空襲も太田山からは良く見えただろう。北で燃え盛る東京を見て、太田山で高射砲を撃つ兵士はどのようなことを想ったのだろうか。高射砲がどれくらい戦果を上げたのか具体的な数を自分は分からないが、結果としてB29は東京のみならず日本中を焦土と変えてしまった。日本武尊と大日本帝国の夢を太田山は見届けたのである。

 令和の世になった今、日本武尊は遥か彼方の御伽噺となり、帝国の記憶を持っている者も少なくなってきている。

 それでも今、太田山にはかなりの人が夢を見に来るらしい。山に設置されている展望台は東京湾の夜景を望むことができ、他の夜景スポットより人が少ないことから穴場としてカップルに重宝されているのだという。展望台には「きみさらずタワー」という名前がついており、一番高いところには日本武尊と弟橘媛の像が向かい合って立っている。

 平和な時代になった。この展望台へ訪れるカップルの夢がどうなっていくのか僕は当然知る由もないが……少なくとも日本武尊と帝国が見た夢よりは、希望があるに違いない。

 最近、久しぶりに夢を見た。僕は太田山の展望台にいて、木更津と東京湾の夜景を眺めていた。

 僕もまた夢を見たと思って、このエッセイを書いた。

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