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㋐からはじまり㋜でおわる  川崎一水

㋐からはじまり㋜でおわる         川崎一水

第一章            古事記の中のアマテラスとスサノヲ
 
   高天原
 
 高天原のもともとの読みは「たかあまのはら」である。古事記より古い書物はあったがそれには当時の政権にとって都合のよくない内容も含まれており、その政権の正統性を後の世に伝えるために新たに創作されたの歴史書が古事記であった。古事記より古い書物とは帝紀と旧辞のことであった。ほかにもあったたくさんあったとは思われるがなかったことにされている。しかしこの帝紀と旧辞は古事記に書かれているからには存在を否定することはできない書物である。これら二つの歴史書に書かれていた内容を都合よくまとめたものが古事記である。〝都合よく〟と言ったのは時の政権にとって都合の悪いことは省いて書かれたということである。実は今も帝紀は存在しているといわれる。乙巳の変で蘇我入鹿が天皇の面前で暗殺され、そのとき蘇我蝦夷の家は焼かれ、そこにあった帝紀は焼失してしまったといわれる。しかし蘇我氏の同族の平群氏がもうひとつの帝紀を持っていたといわれる。その書は今も存在しているという。帝紀とは帝皇日嗣の略称で神と天皇の日嗣が書かれたものらしい。そして旧辞は今はもう存在しない。しかしそれに近いものとして先代旧事本紀というものが今でも存在している。諸本あるがこれは物部の伝承を伝える書物である。
 古事記という文字はそもそも当て字であり、現代ではこれを「こじき」と読むが本来の読みは「ふることふみ」である。日本語であるから本来は訓読みである。高天原ももとの「たかあまのはら」が「たかあまはら」となり、「たかまがはら」に代わってしまった。しかしながら、今でも「こじき」のような音読みはしない。けして「こうてんげん」とは読まない。それは神道の祝詞にあるからである。祝詞では「たかまのはら」であるが派によって読み方が多少違う。今では神道も「しんとう」になってしまったが。
 
 高天原はどこだったかについては二つの説が有力である。海外にあって海を天下って、つまり〝海くだって〟日本列島にやってきたという説と、宇宙から文字通り天下って日本列島にやってきたという二説がある。具体的には海外説の場合は大陸から九州に海くだったという説。宇宙説では宇宙から今の岐阜県の位山に天下ったという説。今でも神主の持つ笏は位山の櫟(一位)の木で作られているという。しかし実際はこの笏の字は竹冠でありもとの材質は竹だったと思われる。つまり皮肉にも大陸説を裏づける結果となっている。実際の笏の材質は象牙などの牙笏などもあったらしく、昔はいろいろあったらしいが、今では櫟椎樫などのかたい木で作られている木笏である。
 結果的に海外説が有力であることになり、高天原の場所は九州にあった「葦原の中つ国」に海くだる前の大陸にあったということになる。古事記の記述にもあるようにイザナミが亡くなった後、イザナミに会いたくて黄泉の国である「根のカタスの国」に行ったイザナキが帰りに穢れを祓った場所が「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」であるり、この筑紫とは九州のことである。つまり海外からやって来たイザナキの本拠地である「葦原の中つ国」が九州であったことがこれからわかる。
 ところが邪馬台国論争と同様に「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」は高天原と同様にほかにもあるという説がある。「橘の小門の阿波岐原」は確かに「阿波の原」ようにも見えるし、九州の中でも今の宮崎の日向ではなくほかの場所にも「小門の阿波岐原」はあるといわれる。イザナキがいたのが九州であるということになれば、黄泉平坂が出雲国の伊賦夜坂のことと古事記には書かれているから船で往復したことになる。
 実際のところイザナキがそんなに離れたところにイザナミを葬るはずはなく、もっと近い距離にあったのではとも考えられる。そして、イザナキとイザナミが国生みをする様子から所謂「男女の交合」があったはずであり、それは琵琶湖と淡路島に仮託したものともいわれる。つまり、淡路島が「成りなりてなり余ったところ」であり、琵琶湖が「なりなりてなり合わないところ」であり、その淡路島と琵琶湖にイザナキは居るとも古事記には書かれている。
 結局、二つの話が混じっていて、国生みをする前にいた天空が高天原ではあったが、「葦原の中つ国」が九州であったからには当初は九州に〝海くだった〟と考えるのが妥当であり、そしてその後に事情でイザナキとイザナミは琵琶湖周辺と淡路島周辺にいたことになる。そして琵琶湖を〝濡鉾〟でかき混ぜて最初に生んだのが淡路島であった。その後はさらに大人の事情で出雲とヤマトに分かれたということになる。これはどうも、当時でも〝古い昔〟にあったこと―旧事(ふること)―と古事記が編纂された八世紀の事情を勘案した内容となってしまわざるをえない政権にとっての事情があったものと思われる。
 
 また、イザナキとイザナミという名称は固有名詞ではなく称号名であるといわれ、代々の天皇のような代々続く称号であったといわれる。つまり海外の高天原に居たイザナキとイザナミは、海くだった「葦原の中つ国」にもその子孫として居たのであった。そしてアマテラスも同様であった。アマテラスも高天原にも居たが葦原の中つ国にも居たのである。

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