棺をひく者がいる、彼は一歩を踏みだす度に
棺をひく者がいる、彼は一歩を踏みだす度にひとつ
の数を聲にだす、その読みあげる数に紐づく悦びは
棺を半歩だけ前へ進め、棺には荷を積む余白が半歩
分増える、彼があらたに積む荷は悦びとなり、円周
率の最後の数を言いあてるまで彼はその旅を続ける
なぜ円周率なのか、私たちの人生が繰りかえし同じ
円周をなぞるからではなく、円周率には愛が隠れて
いるからと彼はいう、それは残余を切りすてる方形
の世界に曲線を取りもどし、綻ぶ世界を円く縫い直
すだけではなく、内接多角形の剣の切れ味を削ぎ、
近似の苦痛を和らげ、苦しみをもたらす同じ数と出
会う確率を平準化し、無限という重荷を強いるもの
の循環せず、自然対数の底と同じくそれは蓋のない
棺をひく遙かな道行を私たちにあたえると彼はいう
*
しかし、何が悦びとなり棺をみたすのか、彼が実際
に行っていることは、玻璃の斜塔が折り重なる街の
鋭角な露頭に回収できないほど放置される人人の罪
障を、移動焼却車が来るまえに拾いあげ、棺底に敷
きつめることだ、街路に押しあう群衆の胸胸からは
次次と袋袋がおち、彼はただ拾い並べていく、棺を
みたすものとは、他者の放恣な欲望の代償なのか、
それに、袋が棺から驕溢しないのはなぜか、この世
の罪悪を詰めるなら地球一つでもたりないだろうに
彼はよく蹣く、荷が軽すぎるわけでも内面に何か幸
せな事柄が起きているからでもない、高楼街に吹き
荒ぶ強風に煽られる五叉路に林立する電波塔の大画
面に四面連動して放映される速報が、袋を偸盗する
ものを指差し、呼応するものに狩りたてられ、仮面
の一群がふるう棍棒で後頭部を撃たれる彼は、匍匐
し数を吐きたちあがる、黑黑しく破裂する球面都市
*
そのとき飛散する黑、彼は読みあげる数を筆記帳に
追記し胸にしまう、だがその黑はただ下落する黑で
あり、頁を占有しようとするが彼の手に止められ、
冒頭へむかうが書記に遮られ、結語をめざすが充溢
する余白が汚瀆を許さず、自分の場所をみつけられ
ない黑数は、その場で同じ鍵を乱打する、まだ読み
あげられていない、その先走る数によって、明証性
を奪われる数列の軌道、級数の繋がりは斷たれ、私
たちの数がみたす海はにごり、棺を切りだす古樹へ
の航海路の伝承を上書きする黑は、いつの間にか私
たちの書を未来から退廢させ、私たちの歴史を侵す
*
幾世代にもわたる荒廢の堆積、瓦礫の丘陵にたつ彼
の影を私は追うが、そこには棺の轍があるだけで、
彼はなく、反対の地平に屈んで彼は荷をさすってい
る、私は彼の軌道に滑る余擺線にすぎず、激浪の波
頂が崩起を繰り返し、私と彼の間にひかれる無数に
ある直線は、手のとどくものもあれば、足が挫ける
ほど遠いものもあり、私の小さな棺の定まらない進
捗に、彼は前進そのものとして、私の眼前に現れる
彼を追いぬこうとしているものが一人、彼も柩を引
きずっているが蓋は閉じ視線をはずし、くぐもった
聲で騒ぐものを柩に入れ、眼を柩に釘付けしたまま
先を急いでいる、また一人、本人は柩に納まってい
るが、確かに柩をひくものはいて引綱は牽かれ、揺
れる柩から納められているものが跳ねおち、別の軌
条をいく一群がそれを鐵鉤棒で手繰りよせ、鉤が深
く喰いこむ瞬刻、うめきに似た風が䫸と吹きすぎる
*
脆弱な想像に愛撫される夜から目覚める辛さは、誰
もが一度は経験するに違いないが、苦難の多い人生
に一つでも幸福の刻印があれば、自身の時を刻み棺
を軽くすることも可能かもしれない、だが葛藤なく
選択される未来は手近になく、予見できる不幸を避
けることも叶わない、地上の踏みならされる誘導路
で、巻きあげるとたちまち髭発条が空転して伸びき
り胸の時計がとまる私の、もはや幸福は個人の問題
ではないと彼に語る、迷界に弊える直立歩行の錯覚
*
このアスターは何だろう、注釈、脚注、いや彼の筆
記帳にそれはない、ならば闇の先にある一點の光、
いや流転の脱漏、つまりねむりただし瞼をあげたま
まの、そう生は連続ではなく離散だ、誰のものか空
棺が散乱している、ただ棺の内壁には爪でかいたの
か文字がみえる、彼が手に触れ黙読していた漏告、
彼の棺にはいまその告白のほか何が積まれているの
か、貌か眼差しか人形か、皮下の創痍か、葡萄の搾
り滓、暗緑の怨嗟と慟哭、告発、単色色した別れ、
愛と祈りか、囃したてる記号、分節できない渾沌か
読みあげられる円周率に後悔はない、既知は悔いな
い、生は悔いるだろうか、私たちの身體は卵割の須
臾から死を生きることを知っている、むしろ未知で
あるのは生だ、死が救いになる生の苦悩があるなど
死は考えたこともない、死は悦びや幸福しか知らな
い、産声をつつむ涙、立っちとあんよの祝福、腕の
翅への変容、挫折からの立ち直り、他者との邂逅、
結果と種子、減数分裂と交換、最初の二倍、球菌の
対数増殖、珪藻美の加速膨張、絵具では表しきれな
い華色の多彩、存在から存在するへの跳躍、悦び、
死は生のエロスを羽搏かせるほかに何ができるのか
*
少しでも足が浮くならば、それだけ大地を遠くまで
臨むことができるだろう、彼はどこへ進むのか、棺
を切りだした樹海か、あの樹林は既に立ち枯れ、棺
をひく轍は風化し、聲だけを引き連れ波にのまれ、
途切れ、水平線に収束し、いつだったか、彼は私に
語る、私の荷はすべて宛先のある手紙であると、そ
の宛先の下には隠匿されるもう一つの宛先があり、
それは必要になるときに私に開示されると、荷を宛
先に確実に送り届ける受託の責任、宛先の一つが不
在でも荷は届く、だから私はかつて彼から手紙を受
けとったのではないのか、彼はすでに丘の向こうだ
*
荒地に打ちあげられる漂着物の裂目から、いまだ漂
流するか弱い聲は、砂を踏み混みあう無口なものた
ちがいくつもの支流に別れ足摺りする奔流に揉みけ
され、本質的な問いから遠ざかり、目を反らすとき
堕とす眼球、砂塵に倒立する蜃氣楼、天井の抜ける
石造りの古代図書館から墜落する、翼を失った鳩た
ち、漂う羽毛が徐徐に砂漠を埋めつくし、風にはら
われる岩丘、彼は砂原に埋もれる砂よりおおい書を
ひろい、砂海との境界のあわく、煙る空とも境のか
すかな、濡れる大地にむかい延延と棺をひく、水無
川の西岸を斬る死の峡に、一本だけたつ黑樹、落陽
月の光で彼は手紙の宛先をもう一度確認し、地に半
分埋もれる玄武岩の板を前に、開封して読みあげる
赦しを乞う恋文、普通に生きたものの短く一回限り
の、他者が跡付けることの困難な、脆さと矛盾だら
けの人生で、言葉を探す一度きりの饒舌、終わりな
き旋律、野に一輪だけ咲く花を求め飛び周る孤蝶、
絶対的孤独なエロスの夢宴、響き渡る母音歌の合唱
*
桟橋に集い海をみつめる児どもたち、波の透明な瞬
き、懐かしい拍動、私にも打ちはじめる、共鳴する
身體に滲みおちる雫、月を映す鐘の聲、大地に漣む
波紋の往来に、溢れそうな泪をためる児の突然の、
膝を折り叫び泣くその児を襲う非情な世界の記憶も
軈て去り、その瞳の奥にあるのは星空、流れおちる
刹那に笑顔のこぼれる児どもたちの供犠なき祝祭、
最も哀しむものが笑み返すまで私たちは手をにぎり
地の涯を隠す棺をひき彼は到着する、彼がひく棺は
円周率の最後の歌詩のひとつ前に係留され、彼につ
づくものの棺もそれぞれひとつ後に繋がれていく、
そして円周率はよみあげられ、私たちは復謳し、彼
は棺の中が悦びでみたされていることを確認して肩
紐を外すが、それを引き繼ぐもう一人の者がいる、
棺船は此岸からゆっくり樹海を目指しその乗船が朝
の世界に辿りつく頃、棺のもの語りは再び始まる、
世界の悲愛を問い直し続け自身の棺をひく者と共に
【23O29AN】
*画像はImage Creatorにて筆者作製。画像と本文に特別の関係はありません。なお、AI生成画像を無条件に支持するものではありません。
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