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棺をひく者がいる、彼は一歩を踏みだす度に

棺をひく者がいる、彼は一歩を踏みだす度にひとつ
の数を聲にだす、その読みあげる数に紐づく悦びは
棺を半歩だけ前へ進め、棺には荷を積む余白が半歩
分増える、彼があらたに積む荷は悦びとなり、円周
率の最後の数を言いあてるまで彼はその旅を続ける

なぜ円周率なのか、私たちの人生が繰りかえし同じ
円周をなぞるからではなく、円周率には愛が隠れて
いるからと彼はいう、それは残余を切りすてる方形
の世界に曲線を取りもどし、綻ぶ世界を円く縫い直
すだけではなく、内接多角形の剣の切れ味を削ぎ、
近似の苦痛を和らげ、苦しみをもたらす同じ数と出
会う確率を平準化し、無限という重荷を強いるもの
の循環せず、自然対数の底と同じくそれは蓋のない
棺をひく遙かな道行みちゆきを私たちにあたえると彼はいう

しかし、何が悦びとなり棺をみたすのか、彼が実際
に行っていることは、玻璃の斜塔が折り重なる街の
鋭角な露頭に回収できないほど放置される人人の罪
障を、移動焼却車が来るまえに拾いあげ、棺底に敷
きつめることだ、街路に押しあう群衆の胸胸からは
次次と袋袋がおち、彼はただ拾い並べていく、棺を
みたすものとは、他者の放恣な欲望の代償なのか、
それに、袋が棺から驕溢しないのはなぜか、この世
の罪悪を詰めるなら地球一つでもたりないだろうに

彼はよくよろめく、荷が軽すぎるわけでも内面に何か幸
せな事柄が起きているからでもない、高楼街に吹き
荒ぶ強風に煽られる五叉路に林立する電波塔の大画
面に四面連動して放映される速報が、袋を偸盗ちゅうとうする
ものを指差し、呼応するものに狩りたてられ、仮面
の一群がふるう棍棒で後頭部を撃たれる彼は、匍匐ほふく
し数を吐きたちあがる、黑黑しく破裂する球面都市

そのとき飛散する黑、彼は読みあげる数を筆記帳に
追記し胸にしまう、だがその黑はただ下落する黑で
あり、頁を占有しようとするが彼の手に止められ、
冒頭へむかうが書記に遮られ、結語をめざすが充溢
する余白が汚瀆を許さず、自分の場所をみつけられ
ない黑数は、その場で同じ鍵を乱打する、まだ読み
あげられていない、その先走る数によって、明証性
を奪われる数列の軌道、級数の繋がりは斷たれ、私
たちの数がみたす海はにごり、棺を切りだす古樹へ
の航海路の伝承を上書きする黑は、いつの間にか私
たちの書を未来から退廢させ、私たちの歴史を侵す

幾世代にもわたる荒廢の堆積、瓦礫の丘陵にたつ彼
の影を私は追うが、そこには棺の轍があるだけで、
彼はなく、反対の地平に屈んで彼は荷をさすってい
る、私は彼の軌道に滑る余擺線トロコイドにすぎず、激浪の波
頂が崩起を繰り返し、私と彼の間にひかれる無数に
ある直線は、手のとどくものもあれば、足が挫ける
ほど遠いものもあり、私の小さな棺の定まらない進
捗に、彼は前進そのものとして、私の眼前に現れる

彼を追いぬこうとしているものが一人、彼も柩を引
きずっているが蓋は閉じ視線をはずし、くぐもった
聲で騒ぐものを柩に入れ、眼を柩に釘付けしたまま
先を急いでいる、また一人、本人は柩に納まってい
るが、確かに柩をひくものはいて引綱は牽かれ、揺
れる柩から納められているものが跳ねおち、別の軌
条をいく一群がそれを鐵鉤棒で手繰りよせ、鉤が深
く喰いこむ瞬刻、うめきに似た風がどうと吹きすぎる

脆弱な想像に愛撫される夜から目覚める辛さは、誰
もが一度は経験するに違いないが、苦難の多い人生
に一つでも幸福の刻印があれば、自身の時を刻み棺
を軽くすることも可能かもしれない、だが葛藤なく
選択される未来は手近になく、予見できる不幸を避
けることも叶わない、地上の踏みならされる誘導路
で、巻きあげるとたちまち髭発条ひげぜんまいが空転して伸びき
り胸の時計がとまる私の、もはや幸福は個人の問題
ではないと彼に語る、迷界についえる直立歩行の錯覚

このアスターは何だろう、注釈、脚注、いや彼の筆
記帳にそれはない、ならば闇の先にある一點の光、
いや流転の脱漏、つまりねむりただし瞼をあげたま
まの、そう生は連続ではなく離散だ、誰のものか空
棺が散乱している、ただ棺の内壁には爪でかいたの
か文字がみえる、彼が手に触れ黙読していた漏告、
彼の棺にはいまその告白のほか何が積まれているの
か、貌か眼差しか人形か、皮下の創痍か、葡萄の搾
り滓、暗緑の怨嗟と慟哭、告発、単色色した別れ、
愛と祈りか、囃したてる記号、分節できない渾沌か

読みあげられる円周率に後悔はない、既知は悔いな
い、生は悔いるだろうか、私たちの身體は卵割のしゅ
から死を生きることを知っている、むしろ未知で
あるのは生だ、死が救いになる生の苦悩があるなど
死は考えたこともない、死は悦びや幸福しか知らな
い、産声をつつむ涙、立っちとあんよの祝福、腕の
翅への変容、挫折からの立ち直り、他者との邂逅、
結果と種子、減数分裂と交換、最初の二倍、球菌の
対数増殖、珪藻美の加速膨張、絵具では表しきれな
い華色の多彩、存在から存在するへの跳躍ビッグバン、悦び、
死は生のエロスを羽搏かせるほかに何ができるのか

少しでも足が浮くならば、それだけ大地を遠くまで
臨むことができるだろう、彼はどこへ進むのか、棺
を切りだした樹海か、あの樹林は既に立ち枯れ、棺
をひく轍は風化し、聲だけを引き連れ波にのまれ、
途切れ、水平線に収束し、いつだったか、彼は私に
語る、私の荷はすべて宛先のある手紙であると、そ
の宛先の下には隠匿されるもう一つの宛先ブラインドカーボンコピーがあり、
それは必要になるときに私に開示されると、荷を宛
先に確実に送り届ける受託の責任、宛先の一つが不
在でも荷は届く、だから私はかつて彼から手紙を受
けとったのではないのか、彼はすでに丘の向こうだ

荒地に打ちあげられる漂着物の裂目から、いまだ漂
流するか弱い聲は、砂を踏み混みあう無口なものた
ちがいくつもの支流に別れ足摺りする奔流に揉みけ
され、本質的な問いから遠ざかり、目を反らすとき
堕とす眼球、砂塵に倒立する蜃氣楼、天井の抜ける
石造りの古代図書館から墜落する、翼を失った鳩た
ち、漂う羽毛が徐徐に砂漠を埋めつくし、風にはら
われる岩丘、彼は砂原に埋もれる砂よりおおい書を
ひろい、砂海との境界のあわく、煙る空とも境のか
すかな、濡れる大地にむかい延延と棺をひく、水無
川の西岸を斬る死のたにに、一本だけたつ黑樹、落陽

月の光で彼は手紙の宛先をもう一度確認し、地に半
分埋もれる玄武岩の板を前に、開封して読みあげる
赦しを乞う恋文、普通に生きたものの短く一回限り
の、他者が跡付けることの困難な、脆さと矛盾だら
けの人生で、言葉を探す一度きりの饒舌、終わりな
き旋律、野に一輪だけ咲く花を求め飛び周る孤蝶、
絶対的孤独なエロスの夢宴、響き渡る母音歌ヴォカリーズの合唱    

桟橋に集い海をみつめる児どもたち、波の透明な瞬
き、懐かしい拍動、私にも打ちはじめる、共鳴する
身體に滲みおちる雫、月を映す鐘の聲、大地にさざな
波紋の往来に、溢れそうな泪をためる児の突然の、
膝を折り叫び泣くその児を襲う非情な世界の記憶も
やがてて去り、その瞳の奥にあるのは星空、流れおちる
刹那に笑顔のこぼれる児どもたちの供犠なき祝祭、
最も哀しむものが笑み返すまで私たちは手をにぎり

地の涯を隠す棺をひき彼は到着する、彼がひく棺は
円周率の最後の歌詩のひとつ前に係留され、彼につ
づくものの棺もそれぞれひとつ後に繋がれていく、
そして円周率はよみあげられ、私たちは復謳し、彼
は棺の中が悦びでみたされていることを確認して肩
紐を外すが、それを引き繼ぐもう一人の者がいる、
棺船は此岸からゆっくり樹海を目指しその乗船のりふねが朝
の世界に辿りつく頃、棺のもの語りは再び始まる、
世界の悲愛を問い直し続け自身の棺をひく者と共に

【23O29AN】
*画像はImage Creatorにて筆者作製。画像と本文に特別の関係はありません。なお、AI生成画像を無条件に支持するものではありません。

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