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出し惜しみせず

先ほど、Twitterで突然のお礼をいただいた。

「このたびは中村さんにお礼を伝えたくてDMしました。この一年ほどTwitterおよびnoteを拝見するなかで、中村さんのバイタリティ溢れる行動力と、気づいたら読み終わっている文章力を日々楽しみながら、『僕ももっと動こう!』と刺激を感じております」

なんでも、ぼくが以前書いた短いエッセイに触発されたそうで、この9ヶ月間で100本以上の400字エッセイを書かれたという。すごい継続力だ。

「エッセイを書こうと決めることで、日々遭遇する考えや物語に対してより敏感に反応することができており、毎日が感情たっぷりの充実した日々を送ることができています。中村さん、いつもありがとうございます!」

こちらこそ、お礼を言いたいです。タケさん、ご丁寧にありがとうございます。

こうしたDMは今までにも何度かいただいてきたのだけど、毎回嬉しさと不思議さを感じる。不思議というのは、ぼくは誰かに影響を与えようと思って文章を書いているわけではないから。もちろん、結果的に何かしらの気付きや良い感化を与えられたら嬉しいけれど、実際はもっと個人的な動機で書いている。何かがあって、「これを書きたい」「書いておかなきゃ」という気持ちが生じて、ただその欲求に従っているだけだ。

でもそうやって書かれたものを通して、誰かが何かを受け取ってくれる。ときに、その人の行動が変化するきっかけにすらなっている。そして彼のように、ときどき直接御礼を言ってくださる方が現れる。もしかしたら、「わざわざ御礼を伝えるほどではないけど、なかなか良いnoteだったな」と感じてくれている人はほかにもいるのかもしれない。わからないけど、もしそうなら嬉しいことだ。

今日読み終わった村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』のなかで、彼も同様のことを話していた。「自分の文章を喜んでもらえるのは不思議なことだ」と。そこに共感した。

もし、ぼくの文章から何かしら影響を受けてくれる人が一定数いるのだとしたら、なおさらもっといろんなことを書きたいなと思う。少し前にも、「本当に中村さんの文章が好きなんです。noteを筆写しているのですが、辛くなったときに読み返すといつも心がすーっと洗われます」と長文でDMをくださった方がいた。心から嬉しかった。自分の文章には、自分でもよくわかっていない良い要素があるのかもしれない。特別なものがわずかでもあるのなら、信じて書き続けていくしかない。

村上春樹もこう言っていた。

「欲はあるべきなんです。恥ずかしいことじゃない。せっかくここまで来たんだから、もっと突っ込んでやりたいという気持ちは持って当然です。だって、普通の人がなりたいと思っても、そうそう簡単に小説家になれるわけじゃないんだもの。せっかくプロとしてものを書ける状況にあるんだから、あらゆる力を振り絞って書かないと、それは人生に対する冒涜だろうと僕は思う」

小説家でなくとも、ひとりの書き手として胸に刻みたい言葉だ。

せっかく、少しは文章を書ける状況にあるんだもの。出し惜しみせず、生かしていかないとね。

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