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知性とは、「生きる姿勢」である

先日、ライターコンサルの初回セッションで、徳島県に住むかいりかこさんと電話でお話したとき、なぜか途中から、ぼくはインタビュー記事のノウハウや自身の経験について、「いつも以上に熱っぽく」話していた。

ライターコンサルの生徒さんたちはみんな意欲的なので、ぼくはいつも夢中になって話してしまうのだが、かいさんとの会話はなぜかとりわけ盛り上がった。

電話を終えたとき、「あれ、何でこんなに熱く話していたんだ?」と思った。

その理由が、電話越しのかいさんの「姿勢」にあったのは確かなのだけど、具体的に「何がどう素晴らしかったのか」をしばらく言語化できずにいた。

それが今日、深夜2時半にふと目が覚めたとき、「ああ、そういうことか!」と胎に落ちた。ぼくは再び眠ってしまう前に、慌ててスマホにメモをした。半分寝ぼけていたが、以下に伝える内容の断片は、なんとか書き留められていた。

人の印象は、会話内容だけでは決まらない

この約5〜6年間で、300人以上の方と1対1で会って、お話を聞かせていただいた。

文章を書くためにガッツリとインタビューしたのはそのうちの一部だけど、「ちょっとお話聞かせてください」と言ってお会いしたのは、ざっと300人はいるだろう。2015年だけで100人以上に会ったし、昨年から始めた「Breakfast Meeting」というぼく主催の朝活でも70人と会っているのは確かだから。

ぼくは人と話すとき、多角的な視点からその人の本質を探ろうとする。

誰かと1時間話すとき、その人の印象を決めるのは、実は会話内容そのものだけではなく、他の要因がたくさんある。むしろ会話の外側で、その人の本質がわかることが多い。

たとえば、「Breakfast Meeting」で人と会っていたとき、初対面の方なのに最初の雑談でスッと懐に入ってくる方がいて、「うわ〜、この方すごいな〜!」と思ったことがある。

それが抜群な距離感の雑談で、瞬時に打ち解けられたのだ。

一方で、初対面でそういうアイスブレイクもなしに、唐突に漠とした質問で迫ってくる方もいた。「質問が抽象的過ぎない?」「まだお互いのこと全然わかってないのに、いきなりその質問する?」と感じるような。案の定そのようなケースでは、スムーズな会話になるまでに時間がかかったり、最後まで良い関係性ができずに終わってしまったりすることもあった。

実際にそう聞かれたことはないのだけど、たとえば「どうしたらライターとして成功できますか?」と初対面の方から聞かれたとしても、ぼくはまず「あなたにとっての成功とは何ですか?」ということや、「少なくともあなたの定義では今『成功』できていないのだろうけど、具体的に何に悩んでいるんですか?」ということが気になる。

だからそれらを先に教えてほしい、と思うのだけど、「それをしない」ということが、つまりはその人の人間性(の一部)を表している。ぼくはそのように人を見ている。

「遅刻するときの連絡」に、人間性が垣間見える

あるいは、予定の時間に遅れてくる場合の対応からも、人間性が見えてくる。

電車の遅れなどで約束に遅れてしまうことはぼくにだってあるし、決して「遅れることがダメなこと」と言いたいわけではない。

ぼくが言いたいのは、遅れるとわかってから当人がどのように連絡してくるかに、「人それぞれの色合い」が結構出る、ということだ。

ぼくにとって一番心地よかったのは、「遅れることがわかった時点で一報をくださる方」だ。

30分くらい前に、「すみません、電車遅延のため、到着が10分ほど遅れてしまいそうです」と伝えていただけると、こちらも余裕を持って対応できる。仮にもっと大幅な遅れで「1時間遅れてしまう」と言われても、早くからわかっていれば近くのカフェで本でも読んでいるので、そんなに気にならない。

しかし、みんながみんな、そのようには連絡をくれるわけではないことをぼくは様々な人との出会いから学んだ。

・約束の時間ギリギリで「10分遅れます」と連絡をくれる人
・約束の時間を過ぎてから「10分遅れます」と連絡をくれる人
・約束の時間を過ぎて、何も言わずにやってくる人
・約束の時間を過ぎて、こちらから聞かないと「何分遅れるのか」「今どこにいるのか」を教えてくれない人
・約束の時間を過ぎて、「あれ!? 今日でしたっけ?」と聞いてくる人
・約束の時間を過ぎても延々と現れず、連絡もなく、翌日そのお母さんから「昨日は体調が悪かったようです」と代筆で連絡が来た人

いろんな人がいて、いずれも人間性を垣間見ることができた。

延々と「自分の話」をする人

あとは、1時間会話するとして、その中での「話す」と「聞く」のバランス感覚が、人によって違うこともわかった。それは二人の関係性やタイミングによっても変化するだろうから、一概に話し過ぎがいけないとは言えない。

ただ以前、こんなことがあった。

「中村さん、ちょっと悩んでいることがあるのでアドバイスいただけませんか?」と言われ、会いに行くと、その人はひたすら一方的に話し続ける。ぼくが途中で何かを言おうとすると、「でもね、」とすぐに遮られ、また延々と自分の話をし、「そろそろ時間ですね」とそのまま帰っていった。

「ぼくは何のために呼ばれたのだろう」と悶々とした。最初から「話を聞いてほしい」と言われていたら、それで何も問題はなかったはずだ。迷わずに聞き役に徹することができた。

でも「アドバイスがほしい」と言われて、アドバイスさせてもらえない。ぼくは話をさせてもらえなかったことに腹が立ったのではない。「この人は何を考えているんだろう」と本当に不思議で仕方なかったのだ。

逆に、自分の話はそこそこに、「自分はこういうことで迷っているが、中村さんはこういうときどうするか?」と具体的な質問をたくさんくれる人もいた。ぼくはそこに、人との出会いを無駄にしない姿勢、学ぶ姿勢を感じた。

「先生」と「生徒」で役割を固定しない

日本の学校教育の影響なのかはわからないが、「この人との会話では、相手は先生(教えてくれる人)で、自分は生徒側(教えてもらう人)」と役割を固定して考えていそうな方をときどき見かける。

「私はこんなことで悩んでいます」「こういうことが好きです」と自分のことについては話してくれるのだが、そこで話がストップしてしまい、相手からの「反応」や「教え」や「評価」を待ってしまう。自分からぐいぐい攻めるように聞いてきたりはあまりしない。

しかしそれだと、学びの深度は浅くなると思う。もっと、限られた時間の会話を、自分のために使うことをお勧めしたい。

もちろん相手との間に、立場や経験の差はあるかもしれない。それでも一人の人間として、相手との関係は対等でいいのだ。

「中村さんはそう思うんですね。でも私はこう思いました」それで、何ら問題はない。

たとえばライターコンサルの場合でも、ぼくの話はあくまで「参考のひとつ」として捉え、最終的には何事も、生徒さんたちが自分の頭で、よく考えてみてほしい。

ぼくは過去の経験から、物事を考えるためのヒントやベースを与えることはできるが、「絶対的な正解」を教えることはできない。「正解」は時代によっても、人によっても異なるから。

生徒さんから、ぼく自身が新しい考え方や視点を学ぶこともある。それはぼくが「発展途上」であることを自覚し、対等な立場で相手と接しているからだ。

伸びる人は、まず自分の力でどこまでやれるか試そうとする

さて、ここでようやく冒頭のかいりかこさんの話に戻るのだが、彼女の質問はいつも明瞭だった。

「インタビューする際の質問事項って、中村さんはどうように準備していますか?それは相手に事前に見せた方がいいですか?私はこうこうこう思っていたんですけど、そこのところが中村さんはどうされているのかなと思って」

「中村さんがフリーランスになって、アメリカへ語学留学されたとき、企業からの応援があったと書いていましたが、そのお話について詳しく聞かせていただけませんか?」

など、すごく具体的で、こちらも答えやすかった。

何よりも素晴らしかった点は、

「自分ではここまでやってみたけど、ここから先がわからないからアドバイスがほしい」

「ここまでの情報は記事で読めたけど、ここから先の話は書いていなかったから、直接聞かせてほしい」

ということだ。

伸びる人は、まず自分の力でどこまでやれるかを試そうとする。

どこまではできて、どこからができないのかを、把握している。あるいは把握しようとしている。

その上でピンポイントで「自分の課題」に関わる質問してくるから、結果的に、その人が「まさにほしかった情報」を、相手から掴み取っている。強い「自分事」の意識で、会話に臨んでいる。

ぼくはぼくで、「そこまで調べてくれたのか、よしじゃあとっておきの話をしよう」と熱が込もる。これはぼくに限らず、聞かれる側は誰だってそうだ。それが人間というものだと思う。

それで冒頭の悩みが解けた。だからぼくは、かいさんとの電話の中で、あれほど熱っぽく話していたのだ。

知性とは、「生きる姿勢」である

ぼくは、会社員だった頃に、自分が夢中で人に会って話を聞いていたときのことを思い出した。

起業家の方を相手に、「ぼくも起業に興味があるんです」とだけ言って相手の話を待つ、なんてことは絶対にしなかった。

もう、その人の記事などはあらかじめ読み込んでいたから、記事だけではわからなかった、あらゆる疑問点をぶつけた。その裏側には、「ぼくがとてもできそうにないことを、なぜこの人はできたんだ?」という強烈な疑問があった。

「あなたはなぜ、在学中に起業できたんですか?ぼくも起業には興味がありますが、在学中にするという発想はなかったです。なぜそんなことができたんですか?」

「なぜ、そこであなたはプログラミングを学ぼうと思ったんですか? どうしてこれではなく、プログラミングを?」

「どうしてアメリカではなくニュージーランドへ行ったのでしょう?ぼくだったらその選択肢は思い浮かばなかったかもしれません」

自分が同じ立場なら、そうできただろうか? いや、多分できなかった。

それなのに、なぜこの人はできたのか? どんな価値観や考え方や経験が、それを可能にさせたのか? 

という疑問が常に浮かんでいた。それらを具体的に聞くことで、ぼくは出会う人たちそれぞれの「良さ」や「価値観」を、なんとか吸収して自分の一部にできないかと考えていた。


浪人時代、英語の長文問題を読んでいて、ハッとさせられる一文に出会った。

翻訳すれば、「知性とは、生きる姿勢である」という意味合いの言葉だった。

ぼくは「その通りかもしれない」とその言葉を気に入り、今でもたびたび思い出す。かいさんとの会話で、まさにその言葉を思い出した。

向き合った人から、学びをより吸収できる「姿勢」というものがある。知性とは、「生きる姿勢」に他ならないと思う。

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