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「誰かの役に立とう」では、何も書けなくなってしまう

ときどきブックオフで、「掘り出し物はないかな」と100円コーナーを物色することがある。先日は玉村豊男の『パリ 旅の雑学ノート』を見つけて買った。

1977年に書かれた本なのだけど、実におもしろかった。44年前のパリについて知ったところで、ガイドブックとしては成立しない。実際、書かれていることの多くは、今の時代のパリでは見られない。しかし、知っておいてなんら損はないし、現在のパリにつながる経緯が見えてきた。豊かな香りがした。ひと昔前の粋なパリもまた素敵だ。

併せて、同じく玉村豊男『ロンドン 旅の雑学ノート』もパリ編の隣に並んでいたので、一緒に買って読んだ。こちらもイギリス人の生活習慣が見えてきて、とても良かった。

終わりにある斎藤茂太さんによる「解説」で、玉村さんが一時期ジャルパックの添乗員をしていたことを知った。なるほど、おそらくその経験はこの本の細かな描写と無縁ではないだろうと思った。彼の知識量には驚かされるばかりだったが、元添乗員としてとても嬉しくなった。

その「解説」を読んでいる最中、「斎藤茂太さんって、どこかで聞いたことがあるような・・・」と頭をひねった。そして思い出した。「斎藤茂太賞」の人だ。

1973年に斎藤を会長として発足した日本旅行作家協会では、斎藤没後の2016年に、斎藤の「功績をたたえ、またその志を引き継ぐ」との趣旨で、旅にかかわる優れた著作を表彰する「斎藤茂太賞」を創設した。(Wikipediaより)

以前、旅についての文章のコンテストはないのかな、と探していたときに、「へ〜、こんな賞があるんだ」と見つけた気がする。

久しぶりに思い出して、最近はどんな作品が受賞したのか、ふと気になった。

2020年に第5回 斎藤茂太賞に選ばれたのが、若菜晃子のエッセイ集『旅の断片』だった。

若菜さんのことも、この本のことも知らなかった。ただ、Amazonでの本紹介を見て、直感的に読んでみたくなった。

登山の専門出版社の編集者を経て文筆家として活躍している著者による、待望の随筆集第2弾。さまざまな国の風景や人との交流、旅を通じて広がってゆく思考を、静謐な文章でまっすぐに綴ります。個人的な旅の記憶が濃やかに表現され、読者も体感できる情緒豊かな一冊。(Amazonより)

そう思った瞬間、近くの書店に在庫があるのを調べて、購入した。その日は30ページくらいだけ読んで、カバンにしまった。

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昨日、ぼくはnoteを書きながら随分と悩んでいた。

現在の悩みを率直に書き出してはみたものの、なかなか行動の糸口が見えてこない。

そして夜、もう一度『旅の断片』を開いた。すると、「コルテス海にて」という短いエッセイを読みながら、何か心が解きほぐされるような感覚があった。

若菜さんは30代の半ば頃、メキシコ西部のバハ・カリフォルニア半島を旅していた。コルテス海をプロペラ機で渡る。小さな窓から見渡す限りの海を眺めていたとき、突然、「自分などいなくてもいいのだ」と思ったという。

「たとえばこの飛行機のパイロットも、少なくとも今、この飛行機を操縦することで私たち乗客の役に立っているかもしれないが、そして彼はそのことをきっと誇りに思っているだろうが、でももし彼がいなかったとしても、代わりはいくらでもいる。もちろんどんな人も、家族や周囲の人たちにとってはなくてはならない、代えのきかない大切な存在だが、世界にとっては代わりのきく存在なのだ。自分がもしなにかをなしたところで、これほど広い世のなかで、そんなことはつゆほどのことでもない。そのことを知る人はごく限られた範囲のひと握りの人々だけでしかない。それはなにも私だけではなく、有名無名にかかわらず、どんな人であっても同じことなのだ」
「自分がしている仕事だの研究だのは、他人のためではなく、自分がそれをしたいからしているだけで、すべて自分の満足、自分の欲求、自分の納得のためでしかない。それが会社のため、ひいては人のためにならなくてもいいし、なれると思っている方がおこがましいのであって、なれるはずもない。そもそも自分などいてもいなくても大勢に影響はないのだから。自分にできることなんて、たかが知れているのだ。とどのつまり、だからこそ、自分のために生きればいいのだ。自分は自分自身の納得のために生きる。否、自ら死ぬことはできないから、そうやって生きるしかないのだ。もしそのことがなにかの役に、誰かの役に立つことがわずかなりともあったなら、それは僥倖というものであって、自ら望んでなるものではない」
「生きているかぎり何事かをし続けなければならないし、生まれた以上は自分がよいと思う何事かをし続けるべきだが、それがなにかになると思わないことだ。自分ごときがすることなど、たいしたことではないのだ。自分がちょっとくらいなにかを作ったり、なにかをしたりすることが、なにかになるなんてことはない。どんなこともこの世界からみればとるに足りないことなのだ」
「砂漠ではサボテンは誰にも頼らず、一本一本が独立して、大きく立派に生きている。その孤高の姿はすばらしい。自分の力でまっすぐに生きていればいいことで、それはとても大切なことで、自分自身が強くなって、常に外界と闘いながら大きく育っていけばいいのだ。サボテンは見せようと思って生きていない。生きようと思って生きているだけだ。だからこそすばらしいのだ。サボテンは過酷な自然条件の下で、途中で折れたり枝を出したりコブを作ったり、枯れたところからまた復活したりして、いろいろな形になっても必死に生きている。それがまたいい。味があって個性があっておかしみがあって愉快でさえある。それでいいのだ。誰のためにとか、なんのためにとかではないのだ

自分ごときがすることなど、たいしたことではない。だからこそ、好きなことをすればいい。

悩んでいた気持ちが、スッと楽になる言葉だった。

誰かの役に立とう、役に立たなきゃいけない、なんて思わないことだ。何もできなくなるし、何も書けなくなってしまう。自分の欲求に従う。書きたいことを書けばいい。最近は、クライアントすら存在しないnoteの文章ですら、読み手のことを気にし過ぎていたかもしれない。いちいち「こう書いたらあれかな」とか考えてしまっていた。何かちゃんとした作品を書かなきゃとか、人のためになる文章を、とか、思い過ぎていた。「人のためになれると思っている方がおこがましい」という若菜さんの言葉を読んで、恥ずかしくなった。

自分にできることはたかが知れていて、でも、それで全然いいのだ。

だからぼくは、今この文章を書いているように、ただ、生きている。誰かのためになろうと思って書いているわけではなく、自分の欲求で、自分を満たすために、この文章を書いている。書き終えたらまた、したいことをする。ある種の諦めが、自分のエネルギーになるように思えた。

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