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暗い機内の灯りの下で

さっきふと、エッセイに関しては、不完全な文章を自分に許す覚悟を持たないと、書き続けるのは難しいのでは、と思った。作品に完成度を求めることは大事だ。だけど、すべての文章が作品というわけではない。考えるために書きたいときもある。

あらゆる投稿において完璧さを求めると、他の投稿との優劣を気にしてしまい、なかなか書けなくなってしまう。しかし文章は、書くからうまくなっていくものだし、書くから流れが生まれてくるものだし、そもそも書くから人に読まれるものである。だからたとえ不完全な文章であっても、書かないよりはマシなのではないか。他者の目を気にすることはない。自分を癒すのも書くことの効用なのだから。

というわけで、今から書くのは自分のためのとりとめのない話だ。

斎藤茂太賞を受賞した『旅の断片』というエッセイ集を書いた若菜晃子さんは、旅の帰路、飛行機が暗くなり、みんなが寝静まったなか、手もとの灯りをつけて、ノートに旅のあれこれを一心に書き綴っていたそうだ。自分が出会ったことや見聞きしたものや考えたことや思ったことを。その話がほんの少しだけあとがきに書いてあって、なんだか神聖なものを感じた。

それを知ってから改めて彼女のエッセイを読んでみると、確かに記憶が鮮明なうちに書き残さないととても覚えてられないよな、という細かな描写があるのがよくわかる。10年以上前に旅された土地の話も多いからだ。

ぼくも様々な国を旅してきたが、すでに多くの記憶が曖昧になってきていて、若菜さんほどの精度を求めることはできない。どんな観光地へ行ったか、どんな人と会ったかはだいたい覚えているが、具体的にそこに至る道がどうなっていたかとか、その人とどんな話をしたかまでは覚えていない。過去のブログに書いてあれば「ああ、そうだった」と思い出せるが、書き留めていなければ、永遠に記憶の外だ。だからこそ、皆が寝静まった機内でひとり旅の断片を書いている若菜さんの情景を思い浮かべると、同じ書き手として尊さを感じるのである。

以前は、よく書く人間だった。会社員の頃、少しでも湧き起こってくるものがあると、その瞬間に書き殴っていた。書かないとソワソワしてしまうのである。帰りの電車でスマホを打ち込んで、気づけば長文の記事が完成していたことも珍しくない。インタビュー記事にしろエッセイにしろ、文章は鮮度が大事で、冷凍保存するようにその瞬間の感情を100%のまま言葉に閉じ込めてしまうのがいい。もちろん時間をおいて、醸成させた文章の方が良いこともあるが、いつ作品として出すかは未来の自分に委ねることにして、まずは今の自分が、書き残しておくことが大切だ。

若菜さんのエッセイを読みながら、旅のエピソードは、必ずしもドラマチックでなくていいのだと思った。旅先でのありふれた日常のなかにも、旅情は詰まっている。落ち着いた文体は素晴らしいし、時折ハッとさせられる思考に心を撃たれることもある。ひとつ1500字くらいのエッセイが約65本並んでいる。それぞれ読みやすく、小さな宝石が散らばっているようなエッセイ集だ。

・つづきです

・若菜晃子さんの『旅の断片』に出会った経緯


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