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彩り
つい先日、Twitterトレンドでふと目にした「瀬古さん」の文字が気になってクリックすると、訃報が掲載されていた。
瀬古昴さん死去
— 時事メディカル (@jijimedical) April 16, 2021
瀬古 昴さん(せこ・すばる=元マラソン選手瀬古利彦さんの長男)13日に死去、34歳。東京都出身。2012年に悪性リンパ腫の一種、ホジキンリンパ腫を発症し、治療を続けていた。葬儀は19日午前9時30分から東京都目黒区下目…https://t.co/PiO9Puy99B
元マラソン選手で、現在は駅伝解説でもお馴染みの瀬古利彦さん。その長男である昴さんが亡くなった。ぼくは二十歳の頃、彼と富良野で会っている。
大学2年生の夏、オーケストラサークルの2つ上の先輩だった渡辺敬吾さん(現・株式会社シーラベル代表)に誘われて、植林のボランティアに参加することになった。
北海道の富良野に現地集合だという。飛行機で行くのかな? と思ったら、
「富良野まで、青春18切符で行こう」とケイゴさんは言う。ぼくもおもしろそうだと思い、各駅停車の旅に乗っかった。「片道30時間」という、自分史上最も過酷な鉄道旅になるとは思いもよらずに。
最寄り駅から始発の電車に乗り、東京駅でケイゴさんと合流すると、それから数え切れないくらい何度も電車を乗り継いだ。東北地方に入る前から、想像を絶する暇さに襲われた。3〜4冊持ってきていた漫画も二人とも優に読み終え、ジャンケンをすることになった。
何かのためにジャンケンで勝敗を決するのではなく、純粋な遊びとしてのジャンケンをしたのは、ジャンケンというゲームを覚えた頃以来ではないだろうか。二人とも理工学部の学生だったからか、「統計学的に、回数を重ねるほど勝率は50%に近づくはず」という誰でも考えられる仮説を頼りにひたすらジャンケンをしたが、100回もできたかどうか覚えていない。
その後はしばらくお互い無言になった。
夜、ようやく青森駅に着いた。少しだけ駅の外の空気を吸って、お弁当を買って、夜行列車に乗り込んだ。
明け方、目が覚めるとぼんやりと景色が見えた。どこを走っているのかわからないが、初めて眺める北海道の大地だった。苫小牧を通過したことだけは覚えている。その数年前に甲子園で輝いた田中将大の駒大苫小牧が記憶に新しかったから、その地名のアナウンスだけ印象に残っている。
札幌駅からは、また各駅停車に乗る。2日目のお昼にようやく富良野に着いた。
そこで、飛行機で現地入りしていた他の数名の参加者と合流した。WAVOC(早稲田大学 平山郁夫記念ボランティアセンター)主催のボランティアだったので、みんな早稲田の学生だったが、ひとりだけ、慶應義塾大学の学生がいた。それが瀬古昴さんだった。「あの瀬古さんの息子」と聞いて、ぼくはテンションが上がった。陸上をやっていた兄に自慢しよう。
植林をする場所に着くと、『北の国から』で有名な脚本家の倉本聰さんが現れ、彼のお話を聞いた。倉本さんが、「富良野自然塾」というのを主宰している。
2005年春、閉鎖された富良野プリンスホテルゴルフコースの中の6ホール(約35ヘクタール)を森に還すため、植樹をし、自然の生態系を回復させます。植樹は、森で採取した種を蒔き育てた苗と、山に自然に生えている育ちきらない木の芽を移植します。(富良野自然塾公式ホームページより)
倉本さんは、ここで役者を育てながら、木を植えている。だから、ぼくらの手ほどきをしてくれたお兄さんたちは、皆稽古に励む若手の役者さんだった。
富良野駅まで車に乗せてもらったとき、役者のお兄さんが「富良野なら50万円で家が買える」という話をしてくれて驚いた。たったの50万円で家が買えるのか。ろくにアルバイトもしたことがなかった当時のぼくには50万円ですら大金だったが、それでも破格の安さであることは理解できた。「でも辺鄙なところだし、仕事も限定されるしで大変だよな」と思ったが、リモートワークが主流になりつつある今なら「富良野に住むのも全然ありなんじゃないか」と感じる。
「今年はもう終わってしまったけど、6月はここ一面、ラベンダーが綺麗なんですよ。またぜひ見に来てください」
その言葉にも惹かれた。いつか富良野のラベンダーを見に行きたい。
木を植える。
指示に従って作業していただけで、ぼくは特別な想いはあまりなかったのだけど、少なくとも、ひとつの苗木を植えた。木が育つには、長い時間がかかる。
「10年後、自分の植えた木がどこまで育ったか、見に来てください」と言われた気がするが、あれからもう10年以上が経った。ぼくが植えた苗木はどれくらい大きくなっただろうか。
不思議なもので、先週ランニング中にふと「あの瀬古さんの息子」は今どこで何をしているんだろうな〜となぜか頭によぎった。その翌日か2日後に、彼が亡くなったというニュースを見た。
直接の会話は一言、二言である。彼がギターを持って宿の部屋にいたとき、部屋に遊びに行って「何を弾けるの?」と聞いた。いろんな譜面を持っていた。
連絡先も交換しなかったし、ぼくが勝手に彼のことを覚えていただけだ。
しかし、34歳とは、あまりに早過ぎる死。2012年に悪性リンパ腫の一種、ホジキンリンパ腫を発症し、治療を続けていたという。ぼくが会ったのが2008年だったから、あれから数年して、長く辛い闘病生活に入ったのだろう。
今年3月8日には本を出版したばかりだった。ずっと闘っていたのだ。
ボランティアの初日の終わりか、2日目にプログラムが全て終わったときか、どちらか忘れたけど、「最後に歌を披露します」ということで瀬古さんがギターで弾き語りをしてくれた。みんなは小さな輪になってじっと耳をすませていた。
弾き語りを生で聴くのも初めてだったし、若かったぼくは、「うわ、みんなの前で歌えるなんてすごい度胸だな」と思った。
Mr.Childrenの『彩り』という歌だった。
その歌を、ぼくは初めて聴いた。何度も聞いて覚えないと、なかなか「いい曲だな〜」と認知できないのだけど、そのときは初めて聴くその歌を、「いい歌だな〜」と思えた。瀬古さんが熱唱していたのがかっこよかった。
ぼくがその翌年、自転車で鹿児島まで長い旅をすることになったとき、ひたすらミスチルを聴いていた。その中にはもちろん、『彩り』もあった。今でもこの曲を聴くたび、富良野の記憶、瀬古さんの記憶が蘇ってくる。
彼が生きた証は、ちゃんとぼくの記憶の中にも含まれている。
瀬古昴さん、心からご冥福をお祈りいたします。
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