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講演のための思考メモ(9)ツール・ド・ヨーロッパ

多くの人に背中を押され、2010年8月2日、「ツール・ド・ヨーロッパ」は幕を開けた。2ヶ月間かけて、自転車でヨーロッパ12カ国を旅する。

※以下の内容は、昨年書いたnote「ヨーロッパ自転車旅、2000kmの物語」から転載・編集しています。

周りはみんなドイツ人

スタート地点として降り立ったのは、ドイツ第二の都市フランクフルト。

フランクフルトにて

当たり前だが、周りはみんなドイツ人。そう考えただけでドキドキしてきた。そんなぼくの緊張をほぐしてくれたのが、最初に入ったレストランで隣にいたドイツ人のおじさんに「どこから来たんだ?」と英語で話しかけられたことだった。

「日本からです。これから自転車で西ヨーロッパを一周するんです」と言うと、「信じられない」という顔。ぼくはリュックの中から旅のために用意した旗をおじさんに見せ、片言の英語で一生懸命説明した。

「この旅を応援してくれる人の名前で、日の丸を作っているんです。もし良かったら、あなたの名前も書いてもらえませんか?」

「もちろん書くよ。面白いアイディアだ。そうだ、これを持っていきなさい」

おじさんが手渡してくれたのは、なんと10ユーロ札だった。ぼくは慌てて言った。

「ノー、ノー、そういうつもりで言ったわけじゃないんです。ぼくはただ、あなたの名前を書いてほしかっただけで……」

「いいんだよ。私も君のスポンサーだ。Have a nice trip!!」

そう言って笑顔でお金を渡してくれた。なんて親切な人なんだろう。日本でこんなことってあるだろうか。ぼくは胸がいっぱいになった。

レストランで出会い、10ユーロを手渡してくれた男性

外国が、旅が、教えてくれた

ヨーロッパで最初の自転車旅は、フランクフルトからヴィースバーデンまでの60kmだった。

初めての「右車線」に戸惑い、恐る恐る走った。時折、アウトバーン(ドイツの高速道路)に入り込みそうになり、トラックの運転手に大声で怒鳴られたりもした。日本と違い料金所がないので、気付かないうちに高速道路に入ってしまいそうになるのだ。思った以上に神経を使わねばならず、頭がパンクしそうだった。

だがその反面、ずっと思い描いていた憧れのヨーロッパの景色が目の前にあることに、素直に感動した。だだっ広い畑の中に赤と黄色の小屋がポツンとあるという、こっちでは何でもない風景。だけど無性に感動した。自転車旅だから見られた景色だ。

そしてヴィースバーデンに着くと、水着不可の混浴温泉に入った。男女共に素っ裸で歩いている……。「外国に来たな」と、強く感じた瞬間だった。

次のマインツという街では、シャガールのステンドグラスに酔いしれた。鳥肌の立つような美しい青の世界に、1時間、何も考えることができなかった。

マインツの教会で見たシャガールのステンドグラス

さらにマインツから、ライン川沿いに北上。旧西ドイツの首都ボンでは、日本のお祭り用のハッピを着て市内を走り回った。日本から来た謎の自転車男は注目の的となり、何度も「cool!」と言われた。

そしてドイツ最後の街、デュッセルドルフに到着。日本人の多いことで知られるこの街には、おにぎり屋さん、日本語の本屋さんなどが建ち並び、少し異質だ。商業都市と聞いていたのだが、想像とは違い、賑やかで楽しい街だった。

「何事も、自分の目で確かめるまではわからない」

旅がぼくに、そう教えてくれた。

翌朝、起きて外を見ると、電車を使わざるを得ないほどの大雨。どうせ電車に乗るならいっそ、遠くへ行ってしまいたい……。ヨーロッパ鉄道地図を眺めていると、アムステルダムという名前が気になった。日本からドイツに降り立って7日後、何かに導かれるように、ぼくはアムステルダム行きの電車に乗った。

アムステルダムに惹かれる

大雨のデュッセルドルフから電車で3時間半、ぼくはオランダの首都アムステルダムへやってきた。数多くの画家が愛したという、運河が美しい街だ。

運河の美しいアムステルダム

この日はよく晴れ渡っていたが、駅を出た瞬間から何やら異様な臭いの煙につつまれた。

「そうか、オランダは大麻が合法なんだっけ?」

大麻やタバコと人々の生活感が混ざり合った、なんとも言えない臭い。そしてドイツとは異なった、人々の高いテンション。あちこちで騒ぎ合っている。駅前には怪しい顔色のおじさんや、厳ついサングラスをした大柄の警官がいて危険な香りもするが、日本ではおよそ味わえない雰囲気に、どこか惹かれたのも確かだった。

オランダが自転車大国だというのは、どうやら本当のようだ。とにかく自転車が多いし、自転車専用道の整備も細かいところまで行き届いている。間違えて自転車専用道を歩いていたら大声で怒鳴られた。「自転車=車」という意識は、日本よりも格段に高い。

「自転車大国」は本当だった

アムステルダムから南へ、自転車を漕ぎ出したときのこと。自転車用の道は安全ではあるものの車道とは完全に独立しており、かなり回りくどい道になっているため時間的なロスが大きい。

オランダはどこにでも自転車専用道がある

わざわざ遠回りしなくてはならない場面もあり、ぼくは少しうんざりしてきた。「このままじゃなかなか街に着かない。ちょっとなら大丈夫だろう」と、ついに耐え切れなくなり車道を走り始めた。

すると、ぼくの横を通り過ぎて行くほとんどの車に怒鳴られることになった。「ここは車専用の道で、お前の道は向こうだ!」と。ここまで文化が違うものなのか。結局引き返して元の自転車道に戻ったのだが、驚いたことにさらに、わざわざ車で追い掛けてきてぼくを引き留め、「さっきあの道を自転車で走っていただろう。ダメだよ、危ないから」と声をかけてくれる人さえいたのだ。すまなかった。国民全員がルールをしっかり認識しているからこその、自転車大国なのだろう。

走っている途中で、雨が降ってきた。最初は小雨だったが、だんだんと本格的に降り始めた。日本だったらこの雨で自転車に乗るような人はまずいない。ぼくも今回は諦めて、途中から電車を使おうかどうか悩んだ。

しかし周りの人々はなんでもない顔で、傘も差さずに自転車を漕いでいる。70歳くらいのおばあちゃんまでもが、びしょ濡れになりながら自転車に乗っているのだ。信じられないような光景だったが、これを見たぼくは「この程度の雨で電車なんて使ったら、日本人の恥だ」と、思いはじめた。「行ってしまえ!」と心の中で叫び、豪雨の中を再び走り始めた。

レインコートは濡れられる限界量を超え、サングラスは雨粒で埋め尽くされ視界がなくなった。もはや自転車を漕いでいるというより、泳いでいる感覚に近い。「せっかくの夏休みに、何でこんな辛い目に遭っているんだ」と、何度も泣きそうになりながら、ようやくロッテルダムに到着した。

雨の日のロッテルダム

ずぶ濡れの状態でホテルに入り受付を済ませると、ロビーにいた男が「君はサイクリストか?」と聞いてきた。ベルギー人のマリオという男だった。彼は2年前までセミプロのロードレーサーだったそうだ。そして自転車で旅をしているぼくを気に入ってくれ、たくさんのベルギー情報を教えてくれた。

「ベルギーで何か困ったことがあればいつでも連絡してくれ。俺たちは友達だ!」

歳は近いが、とてもしっかりした男だった。あのタイミングでぼくがロビーにいなければ、マリオと会うこともなかっただろう。「この出会いのために雨が降ったのかもしれない」と考えると、妙に納得できた。

ベルギー人のマリオとの出会い

親切なおじさんに感謝

ロッテルダムを後にすると、ベルギーのブリュッセルを経由しイギリスへと向かう。イギリスへは自転車ごとユーロスターで移動した。

マンチェスターでサッカー観戦

イギリスに寄ったのはマンチェスターで本場のサッカーを観るためだったが、交通量の多いロンドン市街地を自転車で走ることも貴重な体験となった。とにかく道が混雑していて危険ではあったが、イギリスは西ヨーロッパで唯一左車線の国。日本からやってきたぼくにはかなり走りやすかった。

その後マンチェスターから、飛行機でポルトガルへ向かうことにした。自転車を飛行機に載せるためには車体を梱包する必要があるのだが、今回ばかりは空港で段ボールを調達するしかない。航空券を予約してあるとはいえ、もしこの場で梱包できなかったら……ポルトガルを諦めて陸路でスペインに行くことになる。

空港に着き、チェックインカウンターで「箱はありませんか?」と尋ねるも、「俺は知らないよ」と一蹴される。他のカウンターへもいろいろと行ったが英語がよく聞き取れず、どうしていいのかわからない。

「やはり飛行機は諦めるしかないのか……」

ところが諦め半分で作業員のおじさんに相談してみたところ、裏口から大きなダンボール箱を持ってきてくれた。かなりボロボロだったが、なんとか梱包に成功した。親切なおじさんに感謝。これで諦めかけていたポルトガルに行くことができると思うと、嬉しくてたまらなかった。

ギリギリのタイミングで自転車を梱包し、ポルトガルへ

未知の国ポルトガル、そこではどんな出会いや冒険が待っているのだろうか。ぼくは胸を弾ませながら飛行機へ乗った。

これこそがぼくの自転車旅

目が覚めたとき、部屋には強い日差しが飛び込んでいた。ポルトガルは、これまで訪れてきた国々とはまるで気候が異なっている。ドイツやイギリスでは常に分厚い雲に覆われ、8月だというのに夕方になれば日本の秋のように少し肌寒かったのだが、それに比べ南欧はなんて素晴らしいのだろう。湿気がなく、気温も高い。待っていたのは、この暑さだった。

陽光が差し込むリスボン

首都リスボンは、坂道の多い美しい街だ。急な勾配の小さな通りには、かわいらしい路面電車が次々と往来する。首都とはいえ高層ビルは少なく、どこか懐かしさを感じさせる風景に愛着が湧いた。人も親切だし、海も空も素晴らしい青さだし、最高の国だなと思った。

しかし、ポルトガルが自転車に優しい国でないことは確かだった。なぜなら、自転車専用道というものがほとんど存在しなかったからだ。コインブラからポルトまで120km走った日、自転車とすれ違ったのはわずかに2回だけ。どこにいても自転車が視界に入ってきたオランダと比べると、「同じヨーロッパでも、ここまで状況が違うのか」と、思わざるを得なかった。

そして日本と同じように車道の端を走ることになるのだが、状況は日本よりも悪い。高速道路でもない一般道路が、時速制限120kmという、信じられないルールだったりするのだ。そんな道を30分も走れば、一度は轢かれたねずみや猫の死骸に出くわす。「少しでも油断したら、ぼくもこうなってしまうのか……」と、ハンドル操作にはいつも以上に力が入った。スレスレで通り過ぎる大型トラックの風圧で何度もガードレールに叩きつけられそうになりながら、ぼくは恐る恐るポルトガルを北上した。

ポルトガルの道路。ポルトまで86km

日本人なんて絶対にいるはずのないような田舎町で、ひとり坂道を喘ぎながら登っているうち、忘れかけていた感覚が蘇ってきた。日本のみんなが夕食を食べてエアコンの効いた部屋でテレビを見てくつろいでいる時間に、ぼくは誰にも気付かれることなく、太陽を浴びながらひたすら自転車を漕いでいる。さっきボトルに入れたばかりの水は既にお湯になっていて、飲もうとすれば失敗して鼻にかかり、シャツで顔を拭こうとすれば汗と水でどんどん汚れていく。まるで「快適さ」とはかけ離れている。

なのに、不思議と心地良いのだ。「おい、こんな坂に負けていいのか?」と自分を奮い立たせ、坂道を登りきる度に「よくやった」と自分を励ます。自分との闘い、自己との対話を繰り返しながら、景色が変わっていく。ぼくにとって、自転車旅の魅力はそんなところにあったはず。

「そうだ、これこそがぼくの自転車旅だ」

ポルトガルの大地が思い出させてくれた。

ポルトガル第二の都市ポルト

一歩踏み出しさえすれば……

ポルトから更に北へ100km、川にかかる小さな橋がスペインとの国境になっていた。国境というと何か大がかりなものを想像していたが、パスポートを見せる必要がないどころか、人すら立っていない。そこにあるのはポルトガルとスペインの国旗が表示された小さな看板のみで、国が変わったという実感がまるでない。

しかし、それもほんの数分のこと。突然ビューンという音とともにぼくの横を風のように過ぎ去ったのは、ポルトガルでは一度も見なかったロードレーサーだった。あまりに速かったので「かなり本格的な人だな」なんて思っていたら、更に10人近い自転車集団が一気にぼくを抜いていった。スペインはロードレースが盛んな国だ。国は確かに変わっていた。

小さな町でカフェに入ると、自転車に乗った東洋人がよっぽど珍しかったのか、お店中の人にジロジロと見られた。英語のわからないおばさんに、ジェスチャーと顔の表情を駆使して必死に「何か食べ物が欲しい」と伝えた。するとおばさんは、お皿の上に焼き菓子を5つのせて手渡してくれた。

プレゼントしてくれたお菓子

「いくらですか?」という顔で財布を見せると、「お金はいらないわ。食べなさい」という顔。なのに「ありがとう」にあたるスペイン語がわからず、その場でお礼を言えなかった自分がひどくもどかしかった。

お菓子を食べながら電子辞書で「とてもおいしかったです。ありがとう」というスペイン語を何度も練習し、帰り際おばさんに言った。おばさんはにっこりと笑って「グラシアス(ありがとう)」と言ってくれた。少しスッキリした。

そしてバレンシアで世界三大祭りの一つであるトマト祭りを満喫した後、バルセロナへ向けて走り出した。その日の日記には、こんな言葉が書いてある。

「日本を出て24日が経った。疲労が蓄積していくため、なかなかスッキリした状態にならない。たまには一日中寝ていたいなと思うこともあるが、前に進まなければいけない。一歩を踏み出すのは億劫だが、一歩踏み出しさえすれば後は勝手に進んでくれる。自転車だけではなく、大抵のことはそうだ」

自転車旅という限定されたものを通じて、様々な普遍的なことを学んでいた。バルセロナでは自転車のメンテナンスのため3日間滞在することになったが、気持ちも新たに再スタートを切ることができた。ここから旅は後半戦に突入する。地中海沿いにしばらく走ると、遠くにではあるが、しかしはっきりとピレネーの山々を見ることができた。

道先案内人になってくれたおじさんたち

折り紙は世界を繋げる

ここはスペイン最北東の街、フィゲラス。ピレネーはもはや目前、その向こうはいよいよフランスだ。画家ダリの出身地でもあるこの街では、「ホテルヨーロッパ」という家族経営の小さなホテルに泊まった。

「朝食は7時からよ」と説明するお母さんにピッタリと寄り添っている子供たちが可愛く、思わず微笑んでしまった。翌朝出発する時ふと思い立ち、ロビーに置いてあったメモ用紙で折り鶴を作り男の子にプレゼントをした。

するとこれが、意外なまでに大喜び。隣にいた女の子が「私にも作って!」と騒げば、お母さんは「どうしてただの紙でこんなものが作れるの!?アンビリーバボゥ!あんたたち!作り方をよく見ておきなさい!」と、子供たち以上に興奮している。

しかし、実際に折っていく過程を見ると、「ワーォ、ベリーコンプレックス(複雑)」としきりにため息を漏らし、「とても覚えられないわ。日本人は手が器用ね」と諦め半分で苦笑い。

子供たちは折り鶴のお返しにと、「ありがとう」と書かれた手作りのブレスレッドをプレゼントしてくれた。そして「このホテルが大好きです。」と言うと、「私もあなたが好きよ。日本人のこと、好きになったわ」と言ってくれた。折り紙を通して世界が繋がった。……驚いたのはぼくの方だ。

折り紙に喜ぶ子どもたち

死と隣り合わせの、命懸けの旅

フランスへと突入した。旅が始まって1ヶ月が経ち、ようやく生活のリズムにも慣れてきたところで緊張感が少し失われていたのだろうか。ぼくは、生まれて初めての「落車」を経験した。

フランスで憧れのブドウ畑を走る

一面のブドウ畑に囲まれながら、北東へと進んでいた時のことだった。いつものようにロータリーを右に曲がろうとすると、目の前には水たまり。何故そこにこぼれていたのかはわからないが、その液体がガソリンだと気付いた時には既に遅し。時速30kmで走っていた自転車はツルっと宙を浮き、顔からコンクリートに叩きつけられた。幸いにも自転車は無傷。右肩と顔に軽傷はあるものの、骨折した箇所もなかった。

だが海外での一人旅では誰に助けを求めれば良いのかわからず、精神的なダメージは大きい。近くの薬局に駆け込むと、店員さんが応急処置をしてくれた。何を言っているかわからないが、「大変だったわね」という顔で消毒をしてくれた。それだけで随分安心できた。その時のぼくにとっては、「人とふれあうこと」が何よりの治療だったのだ。

怪我が落ち着くまで、少し体を休めようと決めた。南フランスのニースへと向かう電車の中、地中海に沈む夕陽を見ながら再び事故を思い出した。「ぼくは今、一歩間違えれば死と隣り合わせの、命懸けの旅を行っているのだ」と、改めて思った。

「ヨータ、よく来たな!」

ニースからモナコにかけての地中海沿いの道は、今回の旅で最も心地よかった。

ニースからモナコにかけての道

片側に美しい地中海、もう片側には”鷲の巣村”と呼ばれる急斜面に密集した村々が姿を現す。モナコを出ると40kmほどでイタリア国境の街ヴェンティミーリアに到着。港町ジェノヴァを通り、都市ボローニャへとやってきた。

この街の広場で、ぼくはある人を待っていた。遡ること2週間。トマト祭りに参加するために立ち寄ったスペインのバレンシアでの、ちょっとした出来事だ。

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「スペインと言えば、パエリアだ」と思いぼくは、レストランに飛び込んだ。しかしウエイトレスに注文をすると、「パエリアは二人前からしか作れないのよ」。ぼくは渋々、パスタを頼んだ。「スペインに来てパスタを食べるなんてなぁ」なんて思いながら周りを見渡していると、ふと隣に座っているおじさんが目に止まった。このおじさんは一人なのに、パエリアを食べているではないか!ぼくは、思わず話しかけてしまった。

「すみません、パエリアって二人前からじゃないと注文できないのでは?」
「そうだよ」
「え?でも、おじさん一人ですよね?」
「あぁ、だが食べ切れないことはないさ」

見ると、大きな鉄鍋に盛られた二人分のパエリアを間もなく完食するところだった。少食のぼくには真似できない芸当だ。

「君は何を注文したんだい?」
「パスタです」
「おいおい、スペインに来てパスタか!はっはっは!」
「・・・・・」

そんな調子で仲良くなったステファノさんはイタリア人で、仕事の出張でバレンシアに来ていたそうだ。

「そうか、自転車小僧。これからイタリアへ向かうのか」
「はい。ステファノさんはイタリアのどこに住んでいるんですか?」
「モデナという街さ」
「ぼく、モデナの近くのボローニャに寄るつもりです」
「ではボローニャに着いたら私に連絡しなさい」

そう言って、電話番号を書いた小さな紙切れを残して去って行ったのだった。

―――――――――――――――――――――

「ヨータ、よく来たな!はっはっは!」

ステファノさんは彼の娘と友人の日本人を連れて現れ、地元で人気のレストランに連れて行ってくれた。そこで食べたポルチーニ茸の味は忘れられない。

ボローニャのレストランにて

この広い地球で、スペインで初めて出会った人と2週間後に今度はイタリアで会い、ご飯までご馳走してもらえるなんて……奇跡だ。人は本当に好きなことをしている時、良い流れを引き寄せるものなのだろうか。

「あそこでこの人に出会っていなければ・・・」と思うことが、この旅ではたくさんあった。

「人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に」という言葉があるが、それを日毎に深く実感する。人は見えない力で繋がっている。

ステファノさんたちと

旅は残りあと20日。ボローニャからフィレンツェへと向かう山道で、この旅最大の試練が待ち受けていた。

アペニン山脈での死闘

イタリアを南北に縦断するアペニン山脈。ボローニャからフィレンツェへと向かうぼくにとって、避けては通れない峠だ。

ボローニャ郊外に出るとすぐに殺風景な山道に入り、人家はなくなった。ハンドルに取り付けられたGPSの標高計は、300mから400m、500m…と、刻みを止めることはない。

「どこまで登るんだ……」

喘ぎながら立ち漕ぎを続ける。足は既につりかけている。フィレンツェはまだ、100㎞も先だというのに……。

本当に疲れると、「疲れた」という言葉すら言えなくなってくる。つばを飲む力も、鼻水をすする力もなくなってきた。必死に呼吸をするのが精一杯で、このまま死ぬんじゃないかとさえ思った。そんなとき、ふと意識朦朧のなかで「大和魂」の三文字が頭をよぎる。

「日本人がヨーロッパの坂に負けてたまるか。お前、箱根の山を越えたじゃないか」

誰が見ているわけでもない、歩いたってバレやしないが、諦めないことがぼくにできるみんなへの恩返しだった。

「一人旅だけどぼくは一人じゃない。みんなと繋がっている」

不思議と前に進む力が湧いてきた。

標高930m。ついに峠を越えた。

フィレンツェに向かう途中の峠にて

苦しみを乗り越えた末に訪れる下り坂は、言葉では表せないほど爽快だ。足がつりながら、苦労の先にたどり着いた花の都フィレンツェで、旅の疲れを癒した。辛い経験をすればするほど、心が自由になっていく気がした。

フィレンツェの街並み

自転車メーカー「BASSO」の社長と対面!

水の都ヴェネチアを経由し、北イタリアの街パドヴァにやってきた。当初は訪れる予定のない街だったのだが、ある人物に会うために。

ぼくが乗っている自転車は、イタリアのBASSO社製のロードバイク。そのBASSOの本社がこの近くにあるということを知り、せっかくだから本社に挨拶に行ってみたいと思ったぼくは、日本で協賛していただいたジョブインターナショナルという自転車会社の高橋社長にメールで相談した。

すると、なんとBASSO社長の携帯電話の番号を教えてくれたのだ! これも何かの縁だと思い、ぼくは恐れながらも社長のMr.バッソに電話をかけてみた。

「ハロー?」
「ハロー」
「Mr.バッソですか?」
「そうだよ」
「……!」

本当に繋がった。ぼくは片言の英語で、必死に状況を説明した。「あなたに会いたいです」と伝えると、Mr.バッソはこう答えた。

「残念だが、今は本社にはいないんだ。実は明日からパドヴァで、自転車展示会があるんだ。そうだ、良かったら君もそこに来ないか?」

この展示会はイタリア全土から人が集まるほど規模が大きいものだ。たまたまぼくが訪れた日に、年に一度の展示会が開催されていたのだ。これは単なる偶然なのだろうか……。

パドヴァの街に着き、広い会場を30分近く歩き回った末に、ようやくBASSOの展示ブースを見つけた。係の人に聞いてみた。「Mr.バッソはいますか?」すると1分後、奥から貫禄のあるおじさんが笑顔で出てきて、握手を求めてきた。

「ハイ、ヨータだね!」 Mr.バッソだった。

「はじめまして。ぼくはこのBASSOの自転車で、西ヨーロッパを一周しています。走り心地は最高です。あなたにお会いできて嬉しいです。感謝しています」

ガムシャラに想いを伝えると、とても喜んでくれたようだった。

「みんな、このジャポネーゼは、私の作った自転車でわざわざ日本からやってきてくれたんだ。すごいだろう!」

BASSO社長との出会い

誇らしげに話すMr.バッソは、社長でありながら、デザイナーとして自らも自転車をデザインしている。つまり、もしこの人がいなかったら、ぼくが乗っているこの自転車も存在しなかったかもしれない。そう考えると感慨深い。

うまく言葉で言い表せないが、なんという奇跡だろう。ぼくは今、自分が乗っている自転車の生みの親と話している。この広い世界でひとつしかない「点」が、目の前にあるのだ。しかもMr.バッソは、見ず知らずの、いきなり訪れた日本人に非売品のシャツと帽子をプレゼントしてくれた。もちろん、旗にはサインも。

旅をしていると辛いこともあるが、それを凌駕する素晴らしい体験が待っている。それは得てして、人とのふれあいの中にある。そんな風に思えた、幸せな一日だった。

スイスで感じた「淋しさ」

翌日、ぼくはスイスへ突入した。「こんな山、見たことない」。日本では見ることのできない絶景だった。アルプスの谷間を、軽快に走っていく。道端の牛や羊の群れ。時には、迷いのない緑の平原に囲まれる一本道。走っているだけで幸せになれる、そんな景色だった。

スイスでは夢のような景色の中を走った

チャップリンが愛したというレマン湖畔の街ヴヴェイには、長さ30㎞の世界遺産のブドウ畑が広がっていた。「おぉー!」しかし感動と同時にある種の淋しさを感じた。

毎日のように新鮮な光景と奇跡の出会いを繰り返してきたこの素晴らしい日々も、もうすぐ終わりを迎えるのだ。

レマン湖とブドウ畑

国境の街バーゼル。再びドイツへ戻ってきた。ゴールのベルリンまで残り一週間。朝の寒さに、時の流れを感じた。もうヨーロッパは、初秋を迎えていた。肉体的な疲労は既に限界に近付いていたが、今日もいつものように旅の相棒にまたがり、自分を奮い立たせる。

「いくぞ……。最後の走りだ!」

少しだけ成長し、再び戻ってきたドイツ

スイスのバーゼルから国境を越え、75km先のフライブルクへ向けて田舎道を進んだ。50日ぶりに戻ってきたドイツ……やはり、一度走ったことのある自転車道は落ち着くものだ。ぼくは久しぶりにリラックスして走ることができた。

この旅で、同じヨーロッパでも国ごとに自転車のルールが微妙に異なることを知った。「この道は走ってもいいのだろうか」と、新しい国に入るたびに緊張したものだ。スイスでは、標識がわからないために高速道路に入ってしまい、警察に止められて注意されたことも……。

途中、自転車道が急に途切れ、行き方がわからなくなってしまった。小道に逸れ、入り組んだ小さな村で更に迷っていると、後ろからサイクリングをしているドイツ人の親子がやってきたので声をかけた。困っているとき、こうした「流れ」が必ず訪れることも、この旅で発見したことだ。

「どこへ行くんですか?」

「フライブルクさ」

「そうですか……。バーイ!」

ぼくは笑顔で手を振った。そして、距離を置いてこっそり後をつけた。彼らがフライブルクまで導いてくれる……ずいぶんと旅慣れたものだ。

それから6日後、最後の経由地であるシュテンダールに着いた。ゴールのベルリンまで130km、旅はいよいよ残すところ一日となった。

ラストダンス

「今年の夏は、自転車でヨーロッパを走る」

振り返れば、そう決意した2010年の1月31日からこの道は続いていた。資金もなく自転車もない、まったく無からのスタートだった。

ちょうどそのころ、新聞で「若者の海外旅行離れ」という記事を読んだ。20代の若者が、海外に興味を持たなくなってきているというのだ。海外を知るということは、日本を知ることでもあるのに……自分に何かできることはないだろうか。

「ぼく自身が自転車で海外を走り、その感動と旅の素晴らしさをブログという手段で同世代の人間に伝えていけば、わずかでも海外に行きたくなる若者が増えるかもしれない」

この想いを企画書にまとめ、企業に飛び込み営業をかけ続けた。旅の資金は全て、スポンサーから集めると決めたからだ。

門前払いを食らったこともあれば、「無理に決まっているじゃないか」と批判を受けたこともあった。それでも自分の夢を諦めることはできなかった。

「私の分まで旅をしてきてください」
「旅のブログ楽しみにしています」

徐々に協賛者が集まってきた。学食のおばちゃんから誰もが知る大企業まで、たくさんの人が応援してくれた。そして15社からの物資提供と、300名の個人協賛を頂き、旅は実現。応援してくれた人たちの名前で作った日の丸を掲げ、ぼくは日本を飛び立った。ーーー

日本では見ない、すべてのものが刺激になった

朝8時、シュテンダールの街を出ると、一週間ぶりの青空が見えた。もう余力を残す必要はない。無心で、最後の自転車旅を楽しんだ。時にはゆっくりと景色を眺めながら、時には速く、風を感じながら……。

朝起きて、荷物を背負い自転車で走り、夕方は街を観光し、そしてブログを書いて寝る。そんな生活を繰り返してきた。カラダは限界に近づくも、夢だったヨーロッパの自転車旅は毎日が新鮮で、想像以上に楽しかった。たくさんの景色と人との出会いが、胸を揺さぶった。

淋しい気持ちが半分、ようやく終わるという安堵感が半分。複雑な心境に、ぼくは人気のない道中で叫び声をあげた。泣いても笑ってもこれが最後の走り。ラストダンス。これまで応援してくれた人、出会ってきた人たちへの感謝を込めて、精一杯走った。

午後5時。ベルリン市内に入った。ゴール地点と決めていたブランデンブルク門には、ベルリンに住む兄のほか、数人が祝福に駆け付けてくれた。

日本にいるはずの母がそこにいたのには、本当にビックリした。

用意してくれた小さなゴールテープをくぐり、ぼくの「ツール・ド・ヨーロッパ」は幕を閉じた。

ベルリン・ブランデンブルク門にてゴール

(つづく)

帰国後、朝日新聞朝刊に掲載された

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