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恵梨香の幸せ(第23話)勤務医の不思議な就職

 出石への行き帰りは五時間ぐらいかかるから、その途中で康太に初婚前の最後の恋人について聞いてみたんだ。でも、あれだけ何でも話してくれる康太が、

「何人かいた恋人の一人だよ。恵梨香だっているだろう」

 いないのが悔しいけど、一般的にそうなのはわかる。でも理恵先生の言葉から、そう素直に受け取れないのよね。

「理恵さんは言い過ぎだよ。そんなにドラマチックな恋が、そうそうあるものか」

 恋は二人にとってはドラマチックだけど、外から見れば付き合ってるとか、別れたとかだけだものね。でも結婚まで考えてそうな相手じゃない。

「ある程度付き合った時点で、結婚を念頭に置くのは不自然じゃないだろ。理恵さん相手でも考えてたぐらいだもの」

 いや康太はかなり真剣に考えてたはず。たしかに上浦家は婿養子を取る必要はあったけど、三人姉妹じゃない。きっと康太は理恵先生を嫁にしても、二人の妹のどちらが婿養子を取る可能性を模索してたはずだよ。

「考えてたと言うか、妄想ぐらいしてたけど、学生じゃ、そこまでだよ」

 前に勤務医ライフを聞いたことがあるけど、医者と言うか勤務医の就職も不思議と言うか、特殊と言うか、恵梨香の理解のレベルを超えるものだった。まずだけど医学生は基本的に就活なんてしないのよね。

 今はだいぶ変わってるらしいけど、康太の頃は卒業して国家試験に合格したら大学医局の所属したんだって。これも卒業校の医局でもイイけど、他の大学医局でもOKだったらしい。入局試験的なものがあるところもあったそうだけど、希望すればフリー・パスのところもあったんだって。

「母校卒業者の方が優遇されるとかなかったの」
「そりゃ、あるけど・・・」

 ここも理解するのが大変過ぎるけど、大学医局には所属するけど大学病院に必ずしも就職するって意味じゃないって、どういう事なんだ。

「恵梨香にわかりやすいように言えば、大学医局は派遣会社みたいなものだよ」

 と言う傍から医者の派遣業は禁止されてるって言うから難解な世界。それでも派遣会社に似ていると言われて少し理解できたと言うか、余計に頭がこんがらがった。恵梨香は勤務医って病院に就職してるって思ってた。

「そうだよ。そうじゃなければお給料が出ないじゃないか」

 そりゃ、そうなんだけど、立派な病院でも、その人事権は病院に無いっていうからワケワカメ。じゃあ、誰が人事権を握っているかと言えば大学医局だって。それこそ院長の人事権まで握っているってなんなのよ。

 康太の説明によると、大学医局によって人事権を握っている病院が違うから、勤務できる病院が違う事になる。有名病院に勤務しようと思えば、有名病院の人事権を握っている大学医局に所属してないと無理なのだそう。

「だから冷や飯覚悟でも他の大学医局を希望するってことなの」
「単純にはそうなる」

 康太はジッツ、ジッツと言ってたけど、これはドイツ語のジッツェンからきたもので、大学医局関連病院、すなわち人事権を握っている病院の事をさすらしい。大学でも伝統校ほど有名病院のジッツを多数持ち、新設校では少ないそう。

 医者は卒業してからも勉強が続くけど、その勉強の場として有名病院に勤務できるかどうかはポイントらしいのよね。ここも単純化すれば、有名病院なら先端医療ができ、先端医療が出来るところに重症患者が集まるぐらいかな。

「軽症ばっかり経験を積んでも技量が上がらないぐらいかな」

 病院によって集まる患者さんの質が違うのは恵梨香でもなんとなくわかるけど、様々なタイプの病院で、様々なタイプの患者さんの診療体験を重ねることが、医者の勉強と考えたら良さそう。

「様々なタイプの病院って簡単に言うけど、どうやって変わるの」
「医局命令さ」

 病院には国立、都道府県立、私立など、様々な設立母体がある。普通に考えれば同業他社かな。恵梨香なら信用金庫でも設立母体が違えば異動なんて絶対無理だけど、

「恵梨香で例えれば、信用金庫、銀行、農協を人事でグルグル回る感じ」

 どうしてそんな事が可能なのか理解できないけど、それが出来るのが勤務医の世界らしい。康太によると医者の忠誠心は大学医局にあって、今勤めてる病院は腰掛けとまで言わないけど、永久就職先とは考えてないらしい。だから派遣会社に例えたんだろうけど、

「退職金とか、年金とかは」
「あれもグチャグチャ」

 異動と言っても、社内とかグループ企業内の異動じゃないから、実際の手続きは勤めてる病院を退職して、次の病院に入職する事になる。そうなれば退職金の積み立て年数はそこでリセットされるのよね。

 年金も厚生年金や、共済年金があるけど、国公立から私立への異動も普通にあるから、国民年金ぐらいしか継続的に支払えないぐらいになるそう。ついでに言えば失業保険も、まずもらえないって。

 さらにがあって、異動しても、もらえる給料がいくらかもわからないのが殆どだって言うのよね。恵梨香でも入職する時に就業規則がどうの、福利厚生がこうの、給与がどうのの説明がバッチリあったけど、医者の場合は入職した日から即仕事だって。

 オリエンと言っても病棟がここ、外来がここ、食堂はここ、医局の自分の机がここぐらいの説明がせいぜいで、給与はそれこそ最初の月の給与明細を見て、

「これだけか」

 こんな感じでやっとわかるのも珍しくないとか。それに異動は医局が命令を下すから、それこそどこに飛ばされるかは不明なんだって。なんちゅう不安定な職種かと思ったもの。

 それと給与体系もかなり変わっているとして良いと思う。通常はそれこそ年功序列で段々と上がるのだけど、医師の場合は研修医と常勤医で巨大すぎる段階があるで良さそう。医師って高給取りの代名詞みたいに言われるけど、研修医からスタッフと呼ばれる常勤医に格上げされた瞬間に三倍ぐらいに一遍に上がるんだって。

「そこで上がるけど、そこから先は殆ど上がらないかな」

 公立病院なら院長にまでなっても常勤医の一・五倍ぐらいもあるらしい。恵梨香は何回聞いてもわかりにくいシステムだし、康太も医者になって働き始めてやっとわかったぐらいで良さそう。

「そういうこと。医者がどんな就職システムになってるかなんて、大学じゃ習わないかならね。中に入って、だんだんわかって来る感じかな」

 たしかに。あまりにも一般常識を超え過ぎてるよ。

「たとえば結婚して家庭を持つのなら、スタッフとして常勤医になってからと考えるだろ」

 何年かすれば、そうなるのは目に見えてるからそうするよね。

「でも異動はどうなるか、わかんないだろ」

 異動した瞬間に遠距離恋愛になって、それがいつ解消されるかも不明だよね。次の異動がいつあるかも不明だっていうし、次の異動先で遠距離恋愛が解消されるかも不明だものね。

「そこまでお互い待ち切れなかったから終わっただけだよ」

 康太の説明はわかるけど、どうも本当のことを話していない気がする。状況的に長すぎた春にならざるを得ないのもわかるし、長すぎた春になるとなかなか実を結ばないのもわかる。ましてや、これに遠距離恋愛が絡むとハードルがさらに高くなるのもわかる。

 でもだよ、理恵先生の口ぶりは、そんなハードルさえすべて飛び越しそうな相手にしか思えないのだよ。そうじゃなきゃ、あそこまで言わないはず。その最後の恋人と恵梨香のどこが似ているかはさておきとしてもだ。

 それと奇妙なのは、康太は智子にしろ、由佳にしろ、あれだけ詳細にまだ恋人未満の恵梨香に話してくれてるんだ。どうして最後の恋人のことは避けようとするんだよ。

「まあ話したくない恋もあるってこと。たとえば理恵さんも、あそこで出会って無ければ話してなかったよ」

 言われてみればそうだけど、理恵先生との恋は恵梨香に話すほどの影響力のある恋じゃなかったと言えるじゃない。たしかに恋人同士の時期もあったけど、康太には珍しく終わりのあった恋じゃない。未練タラタラのうちに終わった恋と違うと思う。

 こんな事は気にしなくとも本来は良いのは恵梨香にもわかってる。そりゃ、恵梨香は正真正銘の康太の妻になってるもの。そして妻になった恵梨香に信じられないぐらいの愛情をひたすら注ぎ込んでくれてる。恵梨香の人生は康太に選ばれた瞬間にバラ色に変わってるのよ。

 康太が話したくない過去の恋愛を聞き出したって意味はないはず。恵梨香に取って大事なのは康太と進む未来だもの。なのに恵梨香の第六感は知っておくべきとしてる気がしてならないの。

 嫉妬かな。いや、そんなものはないはず。他の女を愛したり、抱いた過去は恵梨香じゃなくても結婚までして嫉妬なんてするはずないもの。嫉妬するのは、それこそ結婚前。リサリサに康太が心が動いた時なんか我ながら凄かったもの。

 あれとは違う、わかんないけど、それを知ることが康太との愛をもっと深めてくれるものの気がする。うん、今さらだけど、あの最終段階で聖女智子ではなく、あえて恵梨香を選んだ理由もわかるはずだ。あれは知りたい気がする。

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