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庵野監督シンエヴァdis論調について思ったこと

「この記事は、オタク気質を持ったゴリラが大人になって再度オタク沼にハマり、エヴァを題材とした二次創作を楽しんでいくうえで思いついた、しろーととしての雑感を文にしています。勘違いの与太話としてとらえていただけたら幸いです。」

さらに追記
『疲れていた時に見出しの部分だけをメモしていた項目を掘り起こして文を作っています』

 さて。
 2021年3月8日に公開されたシン・エヴァンゲリオン。
 同作品を観て、その物語が終わるという事実に大きな感情を奮い起こされて、終わってほしくない、終わっていない、こんな風に続いてほしい、いやきっと続いているはず、っていうなんだかよくわからないものを原動力にして二次創作というものに手を出した。
 手を出した、というより、とにかく文章にしてみたいと思って、出来上がった後、シンエヴァ後に存在を知ったpixivに投稿をした。
 昔から同人文化というものに慣れ親しんだ方もいるのでしょうが、自分自身はアニメ等に親しんできたものの、当時のオタク文化はこんな感じ、という程度の記憶があるくらいで自分で何かを作るほどではなかったので、初心者丸出しでとにかく自分の中の湧き上がる衝動を発散する場所を求めていた、という感覚でした。
 カプって何、みたいな。
 せっかく作った文章だから、色々な人にも見てもらいたいな、という、おそらく創作に慣れた人が通るであろう願望がフツフツと浮かび、これもまた今まで手を出したこともほとんどなかったTwitterでつぶやきをはじめ、シンエヴァについての情報や意見を集めるという行動に出始めました。
 シンエヴァを観た方それぞれに浮かぶ感想、批評、思い思いの感情が入り乱れているネット社会を垣間見て強い刺激を受けながら、それをもとに創作の糧にさせてもらうとともに、26年前のオタクだった自分、今の自分を思い返しながら、エヴァという世界やそれにかかわった製作者側とそのファンについて思いをはせていたわけなんですけど・・・
 今日つづってみたい文は、その中で生まれている庵野秀明監督に対する批判、批評の、ヘイトよりの意見について。
 というか、2年間くらい同じこと考えている感じするけんど。

パンツ理論

 本題に入る前にというか、なんというか。
 シンエヴァが公開された時に、批評の手段、とも言えないかもしれないけど話題になっていたことに、庵野秀明監督自身についてフォーカスしようというムーブメントが起きていて、僕自身も興味がとてもあったのでNHKの特番や、過去の発言等を漁るように集めていました。
 その中で発見した、『パンツ理論』
 もともとシンエヴァを見た後に、庵野秀明botというもので、「紅の豚」について庵野秀明監督がおっしゃった言葉に「あれはパンツ下ろしていない」というtweetがあって、なんじゃそりゃ、とつぶやいたのです。
 それについて、Twitterの快感を感じる瞬間だったのですが、自分のツイートを見た親切な方が教えてくれました。
 そのbotに書かれていた『パンツ理論』とは、ガイナックスで発行された本に書いてある、庵野秀明監督と富野由悠季監督の『逆襲のシャア 友の会』1993年11月26日 上井草にて行われた対談でおっしゃっていたものだったそうで。

 それは元々樋口真嗣監督が提唱された理論(?)なんだそうです。以後押井守監督の本の中にも登場するこの言葉が、僕の心の中にずっと残っていて今もこうして考えているわけなんですが・・・

 パンツ理論。ざっと言ってしまえば(僕なりの解釈で言えば)『制作者本人の心情や自身のプライベート、思想、哲学、性癖等、実社会では決して見せられないような内側を、創作の場でさらけ出し具現化しているか』ということ(と思われます)。
 ちなみに、押井守監督の本の中で伝え聞くところでは、
 宮崎駿監督は「パンツを下ろしそうで絶対に下ろさない」。
 庵野秀明監督は「下ろすけどついているのは変なTimTimだった」
 押井守監督は「下ろしたらついていたのは偽物のTimTim」
だ、そうです。

 二次創作とはいえ、僕としてははじめてかいた「物語」であるところ、そういう創作をしたことがある人が通る道だと思いますが、僕にはある感情が付きまとっていました。
 恥ずかしいという感情。自分の恥部を晒している感覚。
 ふと我に返ってみれば、いい年をしてオタク文化であるところのアニメのストーリーを考えて、しかもその内容と言えば青年の男女がくっつくか否かのロマンス文章。僕自身はと言えば遠目に見れば人かゴリラか判別できないほどの男であることから、よくもまぁ恥ずかしげもなくネットの海に流せるものだと我ながら思うところはあるのですが、そこはそれ、世の中のロマンス文章が美男美女のイケイケハンサムボーイズアンドガールズしか作れないのであれば、世のロマンス総数は今の1割にも満たなくなり国の少子化待ったなしにさらなる拍車をかけることでしょう。
 だから、キモイおっさんゴリラが、青年男女のロマンスを書いてもいいじゃないか!という反骨シンを胸に、寄せては返す黒歴史の波を押し返したりもしていたのです。

 ・・・真面目な話として話してみれば・・・
 創作してみた、出来不出来もわからないが見てもらいたい、いやうそ見てもらいたくない。褒めてもらいたい、いや一切気にしないでもらいたい、という、そういう恥ずかしさがあったよ、っていう意味の話でもあるのですが。

 それでも、創作をしてみて、そして世の中の反応を見るにつけ感じる「人(例えばファン側)が見たいもの」と「自分が見たい、創ってみたい世界」という捉え方に、強く興味を持つことになりました。世の中の作品における、作る側と見る側、製作者とファンと言う関係性について、とも言えます。
 製作者側に視点を持ってみると、自分が一生懸命考えるフィクションの世界やストーリーというものは、結局のところ自分が感じている世界の具現化であり、見たい世界であり、あるいは見たくない不安な世界、実世界に対する不満というものが転化したものなのだな、という、自分なりの解釈を深めることになりました。
 そんな視点から考える、庵野秀明監督という稀代の才能をもったアニメ監督、アニメーターさんが感じていることに強く興味を持っていきました。ちなみに同時期に押井守監督と小島秀夫監督と渡辺浩弐先生が語ることについても、同じように影響を受けていきます。
 だいたいの年齢層がばれますね。

 パンツ理論に戻ってみると、オタクの市民権が今ほどではなかったとき、インターネットが普及し始め人々の考えが距離地域を感じずにすり合わせることが出来るようになってきたとき、庵野秀明監督の作った新世紀エヴァンゲリオンによる社会現象を思えば、心血を注いで作りきった20数年前にスタートした作品のエンディングには、どれほど庵野秀明という男性の成分が含有されているのか、ということに興味を持ってしまうことは致し方ないことなのではないか、と思うのです。
 シンエヴァ。
 どんだけパンツ脱いだんや、と。
 脱いでいるか否かが作品の善し悪しではない、としてもです。 

エビ〇ヨシカズさんとキングギドラ

 今回は庵野秀明監督についての批評が話の主題ではなく、僕がシンエヴァ公開後にネットで見つけ、旧劇でも起きていた監督に対しての批判、作品批判、の、特にヘイト寄りになってしまう現象について文を書いてみたいと思ってはじめてnoteに記事にしています。
 とはいえ、直接言及したりするのも怖いので、ぼやかしながら。

 今回の記事を書いてみようと思ったきっかけは、最近シンエヴァ批評の中に炎上的なtweetを見つけ、それに対して辟易していたファンが反応している、という図を見てしまったから。
 作品が批評されることは健全な動きだと僕は思っているし、SNSでただきれいごとを言い続けることも良いことだとは思わず、多少の刺激として言葉や表現を強くすることもどちらかと言えば肯定的にとらえてはいるのですが、時折今話したような炎上的tweetと対極的なファンが反応したり離れてしまったりという図を見ると暗い気持ちになってしまいます。

 今回シンエヴァ公開の時からその期待値は大きく、NHKでの特番をはじめ庵野秀明監督へフォーカスする動きが起こる中、やはりというかなんというか庵野秀明監督がどう変わっているか、という部分も強く映されてきました。面白く、また興味深く見させていただいたし、人が興味をもつことに向けて映像作品を作っていこうというのは、エヴァを作る側だけでなくドキュメンタリー番組を作るNHK側も同じなんだとも思いました。そうして庵野秀明監督像が出来上がっていく。
 実際のご本人がどうなのかは近くにいる人にしかわからないわけですが、それでも伝え聞くエピソードには、天才庵野秀明のこんな行動、みたいなものが多く、人の心をつかむ作品を作ることが出来る要因について考えさせられる興味深いものが多くあります。どんな人生を歩んだら、どんな考え方を持っていたら、こんな作品を考えつく、創ることができるんだろうと。

 さて、小見出しの件ですが、これはとあるラジオを聞いていた時にとあるパーソナリティの人がおっしゃっていたことです。悪くとらえられたりしてもあれなのでぼやかしますが「エビ〇ヨシカズさんの行動がどうかしている。でも、そのどうかしている、という物を見るためにテレビ、っていうのはあると思っている」という発言がありました。
 それは、昨今炎上商法やSNSでの盛り上がりとして利用される感情に比べると、とても善意に満ち、また健全のように僕には見えるのです。人に後ろ指をさされるような行動ではなく少し変わっている行動、その変わっている部分を少し面白おかしく演出しつつその当人にヘイトが向かないような表現方法。

 なぜこの話を書いたのかというと、先のパンツ理論と合わせて庵野秀明監督を思うと、共通項があるように思えたからです。昨今の不始末をおかした人に対しての過剰な意見や攻撃を見ると、有名になって人前に出る人はみな聖人君主でなければならずまたそこから外れないように怯えながら活動しなければならないのか、と錯覚するほどです。もちろんそう努めなければいけないのは、誰でも同じですが。
 庵野秀明監督本人や作品への批判が、旧劇公開時に起きたヘイト運動のように、その動きがむしろ悪い形で顕在化しているのが今の世の中なのかな、と思えてしまいます。
 監督がどんな人なのかということも批判の材料にされていたり、作品への批評が度を越して悪口になっていて、その悪意を材料にしたギャグのようにされ、それに嫌な思いをしたファンとの炎上が、アニメやその他エンタメ業界を盛り上げるのか、というと、そういう一面もあるでしょうが、やはり少し暗い気持ちになってしまいました。
 作品を作ることの難しさ、辛さみたいなものがあるのだろうな、と思う中、先のパンツ理論に合わせて考えると、庵野秀明監督が作ったエヴァンゲリオンという作品には当時アニメの中で表現されたことがほとんどなかった人間の内面や革新的な表現があって、言い換えればおろしたパンツに見た人が衝撃を受けた、というのはあると思うのですが。

 シンエヴァ公開から1年半が経とうとするなか、もっと良い批評、批判を見たいし、そういう中でいやでもここはやっぱり面白かった、これが好きだ、という部分を際立たせて残っていくのが良いなと思っていて、何か文章にしたくなった次第です。
 そんなに悪く言わなきゃならん?っていうことですね。

 と、いうわけで。

 これから本題です(え?)

 というか言いたかったことです。

 ちょっと深呼吸します。


『庵野秀明監督がパンツおろしたらそこにキングギドラがぶらさがってるんだから、それ見たくないかい!?』


長々とここまで読んだ人、損しましたね。



テレビ旧劇を見返して、シンエヴァを見返してみたストーリーラインと見たかったもの、見られなかったもの

 さっきの文章で言いたかったことの8割がつまっていたので、エネルギー切れを起こしました。だから後は蛇足です(キングギドラだけに(うまくないぞ))
 シンエヴァ批評について様々な意見があるなか、僕が肯定的にとらえている否定的意見(ややこしい)批評の一つに、脚本どうよ、という部分があります。
 僕はシンエヴァを見に行く前には「最悪登場人物9割死ぬ、ってこともありうるな、だってエヴァだもん」という心持ちでしたし、結局のところそういうわけでもなく、かといって裏切られたか裏切られていないかわからないけど、とにかく終わった・・・という感想でした。
 あれやこれやの意見が飛び交い、あれやこれや考えた末に「わからん」という結論にたどり着いたのですが、それでこそエヴァ、という気持ちがあったりなかったり。
 決めていたエンディングにちゃんと向いた、筋の通った脚本。それが作品の中で出来ていた時に、観客を納得させるほどの説得力を持った作品に仕上がるのかもしれない、と思います。シンエヴァを見て僕が感じた「納得」は、綺麗な作画、素敵な音楽、宇多田ヒカルさんのテーマ曲、声優さんの演技、20数年かけてシリーズが終わったという事実、それまでの心揺さぶる演出や表現があったからこそであり、脚本ストーリーラインによって感動を受けたのか、というと、それはさすがに違うかな、と思います。
 ただゴールはしたな、とは思ったし、そう思わせることが出来たならそれでもう正解なんだとも思います。ゴールはしたしね。なぜこの人と大人になって手をつないで走り去るのかはわからないけれども。ゴーーーーーール!が凄い格好いいけど「・・・・・・・・・えっ?」っていうのが残っている感じ。
 ただ、そもそも論テレビシリーズから旧劇を流してみたときに、旧劇の最後のエンディングに向けたストーリーラインがちゃんとできていたのか?と考えると僕はどうかと思っていますし、シンエヴァを見て思う脚本、ストーリーラインについてはあまり変わっていないように、しろーと意見ですが思います。
 旧劇に関して言えば、エンディングが衝撃的だったしそれで正解なんだと思うのですが、遡って元々のストーリーラインがそのエンディングに向けて作られていたのかと考えるとそうではなかったと思いますし、衝撃を受けたファン側が、これまで描かれていた話の意味を改めて見て「こうだったに違いない」と思うことであの熱量を生み出したようにも思います。とてもリアリスティックですよね。目の前で生まれた衝撃的な事実をドラマとしてとらえて、その過去を見返して意味を作り出し、ドラマ性ストーリーラインとして認識していく。現実世界でもそんな感じがします。
 逆にエヴァの終わりとして構えて見られたシンエヴァは、フィクション世界としての整合性を求められていたのかもしれない、と思います。納得のいく着地、ランディング。
 旧劇は登坂のままエンディングだったため、空へ飛んでいった。
 新劇は下り坂のなか、納得のいく着地を求められていた。

 書きながら思いついたことなのですが、個人的に面白い意見になったと思います。今度まとまったら別の記事に。


 エヴァと言う作品としてどうあってほしかったか、いやいや人の世に出す作品としてはこうあるべき、という意見も様々ですが、その意見もヘイトに頼ることなく「意味わかんねぇよ!こうあるべきじゃね?」くらいのトーンが残り続けてほしいなぁと思います。

結びに

 今回はじめて記事風のブログを書いてみましたが、書いてみてほんと難しかったです。Twitterだと140文字におさめられず、長文にするとまとめられない自分の拙さが恥ずかしいです。そもそもお前は何を言いたいのか、それについて納得のいく文章構成は出来ているのか、ということを考えなきゃならんのだなと思いました。きっと創作にも活かせることだと思っていますので、気持ちが湧いたらまた別の文を書いてみようと思います。
 記事内の文章の拙さもそうですし、思いついたことについては、繰り返しますがしろーとオタクの戯言ととらえてもらえれば幸いです。


「 パンツおろしたら股間にキングギドラってどういう状況?
 普通に立っていて両足が両足で、翼が結婚する時に大事にしなきゃならん大事な袋のうちの一つ?じゃあ頭3つじゃん。3頭っていうか3本っていうか。それ怖いよ。
 あ、逆さまなの?足部分が上で、翼が(以下略)で、3つある頭の内2つが右足と左足?真ん中がTimTim?黄色い光線吐くの?
 それならわかるよ(わからない)

 押井守監督がパンツおろしたら義体だった、の方が面白くない?
 面白くないですかそうですか。
 ・・・・・・パンツおろしてるのに光学迷彩で隠れてる、とか。
 だからケチャップかけてやれば姿が見える、とか。
 ちょっとメタルギアソリッド風味も。」

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