見出し画像

映画「花束みたいな恋をした」を見て、叫びたくなったこと

はじめに

久しぶりに投稿します。はじめに言っておくと、無駄に長いです。

そしてネタバレも大いに含みます。これから鑑賞を楽しみにしている方は気をつけてください。

普段なら映画レビューとして書き溜めるところなのですが、この映画を見終わった後に感想だけじゃすまない予感がしたので、こちらでまとめたいと思います。よろしければお付き合いください。

あらすじ


大学生の麦と絹。2人はある日同じ終電を逃したことをきっかけに知り合い、お互いが同じ趣味を持っていることから惹かれ合っていく。付き合い始めて同棲をしだすも、大学生から社会人、そして結婚や人生を考える時期を共に過ごす中で少しずつすれ違っていき、別れの選択をするまでの5年間を描いたラブストーリー。


感想

とにかく脚本がいい。
TBSドラマ「カルテット」のときも思ったが、坂元裕二さんは日常の取るに足らない事象への観察眼が鋭い。人物が気にするもの、心揺さぶられるものへの描写がとても繊細で、それでいて小説を読んでいるようなモノローグも嫌味がない。ありふれたものと物事の本質をリンクさせるのがとても軽やかで気持ちがいい。
そこに、菅田将暉さんと有村架純さんの実に臨場感のあるお芝居。言葉や表情の奥に何層もの奥行きを感じる。少しずつ少しずつ変化してすれ違っていく麦と絹がそこにいた。


普段なら上映中に「この辺で半分くらいかな」と時計をチラッと見たりするのだが、今回は気がついたら終わっていた。というか、今思えばずっと見ていられるような雰囲気すらあった。それくらいスクリーンの中の2人は眩しく、愛おしく、歯痒く、儚かった。

「ああ、こんな恋愛してみたかったな」
「すれ違いって切ないけど、大人になるってこういうことだよね」
そんな感想が聞こえてきそうな映画だった。

だけど、僕はもっと強烈なものを途中から感じ、見終わって数時間経った今も払拭できずにいて、なんとか言語化しなければという衝動に駆られてしまった。
これから語ることは、超個人的で、この作品を超極端な受け取り方をした私の内面を吐露したものです。この先、シーンごとの考察なども挟むゆえ、超ネタバレも含む内容になるかと思います。ご容赦ください。

細かいストーリーと考察(ネタバレ注意!)

結論から言うと、この作品は坂元裕二さんなりの「現代日本の恋愛に対するアンチテーゼ」だと感じた。

まず2人の出会いと別れを紐解きたい。
(注:以下、淡々とネタバレです!)

2人は終電に乗り遅れ、朝までやっているお店でお互いのことを話し出す。すると、読んでいる小説や好きな作家、漫画、映画がよく似ていることに気付き、意気投合する。履いている靴も全く同じ。また、好きなお笑い芸人の同じ日程のライブチケットを持っていながら、お互いにその日は行けなかったなんてことも発覚。

「あの日行っていたら出会っていたかも知れませんね」
「じゃあこのチケットは今日出会うためのものだったんですね」


運命じみたセリフがあまりに無意識に出てきたことに戸惑いながら、一瞬にしてお互いを意識し出してしまう。
絹「普通なら『電車に乗ったとき』と言うところを、この人は『電車に揺られていたとき』と言った」
麦「(ジャンケンのパーがグーに勝つ意味がわからないと思ってたけど)同じことを思っていた人がいた」
こんな、運命的な(映画的と言ってもいいかも知れない)出会いから2人の交際は始まった。

そんな2人がすれ違っていく。
大学を卒業したもののフリーターになった2人は、駅から徒歩30分も離れたアパートで同棲を始める。協力してDIYをしながら作り上げた新居、商店街で見つけた美味しいパン屋さん、一緒に読んで泣いた漫画、駅から30分の話の尽きない帰り道。その一つ一つが眩しいくらいに幸福で満たされていた。
しかしその幸福は同時に、社会的無責任の上に成り立っている。お互いの両親から「社会に出ろ」「実家へ帰ってこい」と説教をされ、挙句に麦は実家からの月5万円の仕送りを断ち切られてしまう。(麦の実家が長岡市という事実に、ちょっと吹いた)
麦は大学時代からイラストレイターのバイトで小遣い稼ぎをしていたが、どんどん扱いが雑になっていくクライアントと決裂し、ついに就職することを決意する。
絹は一瞬、これからの生活が一変するのではと不安に駆られるも、「就職するってだけだから」と説得させられる。絹もそれに続くように資格の勉強をし、就職活動を経て見事内定をもらうが、麦はなかなか内定が出ずに焦る日々。
ようやく麦にも内定が出る。しかも、夕方5時には上がれるからイラストも描き続けることができると麦は語る。今の生活が守られることに安堵する2人。
麦「俺の目標は、絹ちゃんとの現状維持です!」と、祝杯をあげるのだった。

ここからは、まぁお馴染みな展開とも言えるのだが、生活のために仕事に励む麦と、今までのように演劇や映画を一緒に鑑賞しながら2人のスローライフを楽しみたい絹との間に溝が生まれていく。
学生時代に「圧迫面接してくるような会社の人間は、今村夏子の『ピクニック』を読んでも何も感じないんだ」と大人を揶揄していた2人だが、「俺ももう何も感じないのかも知れない」と自分の中の変化を吐露する麦。


どうしてお金お金ってなっちゃうのかな、生活のためじゃん、嫌なことでも仕事なんだから、私は好きなことして生きていきたい、好きなことをして生きていくってなめてるよ

どこにでもある、そして社会の中でシームレスに通り過ぎる価値観の狭間が、2人を見事に隔ててしまった。

いつしか喧嘩もしなくなり、身体を重ねるも通じ合う言葉がないと悟った2人はどちらともなく別れを考え始める。
共通の友人の結婚式に出席し、そこで「この結婚式が終わったら別れるから」とそれぞれ決意するのだった。

出会った頃に頻繁にデートで訪れたファミレスで、別れ話を始める2人。
しかし、麦は仲良く笑っていた頃の写真を見ながら「別れたくない。結婚しよう」と切り出す。「結婚すれば恋愛感情なくたってやっていけるし、みんなそれでも幸せになってる。子供作って、家族でディズニーランド行って、大変だけど幸せだねって笑い合って、俺イメージできるもん。だから、結婚しよう」そんな麦に絹は「またハードル下げるの?」と返す。「そうやってハードル下げて、まぁこんなもんかって言いながら幸せなふりして生きていくの?」

そこへ、若い男女が2人と近い席に座る。
辿々しい様子から、恋人ではなくまだ知り合って間もないことがわかる。だけど好きな音楽や小説に共通点があるようで「今日また会えてよかった」とその男女は笑った。それから、かつての麦と絹のように、カバーのかかった小説の文庫本を交換し、今どんな小説を読んでいるのかという話に花を咲かせた。

そんな、お互いが一番輝いていた頃の幻影を見た2人は泣きながら店を出て、ハグをする。そんな風に、2人は別れた。


「学生気分」と「社会人として」に丸め込まれたもの

このワードは、誰もが社会人の入り口を通った時に聞こえてきたのではないでしょうか。この映画の根底にある「男女のすれ違い」にも大きく関係してくる、誰もが経験した概念です。

多くの人が「社会人になったら、学生時代とは違って行動に責任が生じるんだから、いつまでも甘えた考えで仕事していてはダメだ」という文脈で受け止めているんだと思うんです。

この映画の中でも、生活のために仕事に勤しむ麦くんが、いつまでもあの漫画が面白い、このゲームが面白いという話しかしない彼女に対して「いつまで学生気分でいるのだろう?」と不満を漏らしています。

観客から見ても、絹ちゃんはどこか大人になりたがらないというか、現状維持を本気で夢見ているような女性として描かれています。いや、資格取って就職して、その中で趣味を楽しんでいるだけなので何も非難されることないんですけど、「俺が頑張ってるのに、なんでそんなに呑気なの?」って言いたくなる麦くんの気持ちもわからんでもありません。

でも、彼女にとってはそうしたサブカル大好きな共通点から仲を深めてきた訳ですから、それを大切にしたいだけなんですよね。でも社会に出て辛くても生活のために必死だった麦くんにとってはただの”遊び”になってしまっていたんです。

これ、別にどっちも悪くないし、なんなら「まぁ男女のすれ違いでよくありがちなパターンだよね」で片付けてしまえる類の話だと思うんです。
だけど、別れ話の途中で「結婚しよう」と言い出した麦くんの言葉を聞きながら、”この男の子は現代日本が生み出した社会の兵隊かも知れない”という極端な感想が頭から離れなくなってしまいました。


世の中の結婚している人たちが恋愛感情をなくして生活を続けていること。


それでも子どもができれば幸せになれると信じていること。

そのために仕事をして生活費を稼ぐことが正義だと思っていること。

映画や演劇や小説や漫画や音楽に心を動かすことを遊びと呼んでしまうこと。


それが大人になることであると、正解に置いていること。

これが日本の大人の「普通」だとしたら。
これを目指すことを是としている社会だとしたら。
恋愛の尊さや豊かさなど、水に入れ忘れた花束のように一瞬にして枯れてしまうと警鐘を鳴らしているようにさえ感じたのです。

ラストシーン、2人はかつての自分たちの幻影のような若い男女の微笑ましいやりとりを見て涙を流します。でも、その涙の意味はそれぞれ違っていたのではと感じました。男は昔の自分たちの輝きを手放してしまった自分に愛想を尽かした彼女の真意に泣き、女はいずれ自分たちのように傷ついて別れてしまう若い2人の未来に泣いたように見えました。

社会人になる=仕事人になる?

ここからは自分自身の経験や主観も含めて書いてしまうのだけれど。
自分も学生と社会人の狭間で見事に躓いた人間です。

働きたくないとは思っていなかったし、むしろ普通にやれば普通にできるものだと思っていた。でも、想像より遥かにビジネスというのは手強く、モノを売る、お金を稼ぐというものが恐ろしく感じた。利益追求のために会社があり、それらが日々しのぎを削りながら社会が成り立ち、経済が回っている。そんな世界に自分は立っていることすらままならないと感じました。

社会人になるということは、心を殺してでも仕事に勤しむ人格をインストールしなければといけないと頭で唱え続けるのですが、それをどうしても受け入れられない自分がいました。

今はある程度気楽に考えられるようになったし、仕事自体にもやりがいを感じられるようになったのですが、それでも気がつくと仕事しかしていないように感じる日々が1週間、また1週間と積み重なっていくことに、心が死んでしまいそうな感覚になることがあります。

これが、社会人ということなのか。
より多くのお金を稼ぎ、生活をしながら税金を納め、社会に役立つ仕事人になることが、絶対的に正しいことなのか。

もちろん、仕事はしたいです。人の役に立ちたいし、お金だって欲しい。
守りたい生活があるし、叶えたい将来だってあります。
仕事を頑張る人を尊敬してるし、自分も必死にならなければ他人の役になど立てないことも重々承知しています。
だけど、そのために心を殺して人生を好きでもない仕事に傾ける生き方を、少なくとも自分はできないという実感はあります。あくまで自分の心が生き生きとする人生を選択したい。

っていうか、社会全体がそうなって欲しい。
「みんな我慢してるんだから、大人になれ」なんて言ってないで、あんたもあんたの好きにすればいい。他人への寛容は、自分への寛容からしか生まれないんだから。

そしたら、運命的に出会って、あんなに惹かれ合って幸せそうに笑っていた恋人たちが別れを選択する必要なんてなかったかも知れないのに。気持ちよく人の役に立って、最低限のお金と時間の余裕をもって、好きなものに心をときめかせて生きる、そんな幸福が欲しいだけなのに。
この国の恋愛と人生を当たり前のように不自由にしている見えない元凶に、恨みを覚えずにはいられませんでした。全ての恋愛がうまくいけばいいなんて小便臭いことは言いませんが、現代まで続く悪しき価値観に押し潰されてしまわないことをただただ祈るばかりです。

1本の映画からここまで自分を吐き出したくなることってまずないと思うから、映画のレビューとしてではなく「経験と気付き」として書き殴りました。
最後まで読んでくれてありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?