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僕らが自動的に豊かになっていく件(時間の流れと富について)

古今東西、人は富に魅せられ、贅沢な暮らしに憧れる。セレブが話題になるのも、みんなが贅沢な暮らしに憧れるからだろう。ただ贅沢という感覚は、比較の中でしか存在できない。そしてその比較基準は時代によって大きく変わり、いうほど「よいもの」ではないのではないかと、過去の富豪の「昔は贅沢だった」生活に触れると思う。

今年の夏は、江戸時代のお城に、有力商人の邸宅、明治時代に皇室の方々も滞在したというお屋敷を見る機会があった。当時の贅沢の粋を集めた建築やインテリアに、時の権力者や特権階級の生活が垣間見れて面白かった。しかしながら、訪れたタイミングが真夏だけあって、「当時はクーラーなかったんだよな」と考えると、どんなに豪華な内装も、暑そうで魅力が半減してしまう。

けっきょくのところ、100年前の最上級の贅沢は、現代の僕らの生活の足元にも及ばない。僕らは100年前の権力者や特権階級といった大富豪より、快適な部屋で過ごし、贅沢な物を食べ、上質な衣服に身を包み、良いベッドで眠っている。日本は失われた30年で貧しくなったといわれるけれど、今30年前の暮らしに戻ったら、あまりの貧しさに耐えられなくなるに違いない。

贅沢という概念は、時の流れがもたらしてくれる富に比べれば、実にはかなく、微々たるものだ。時がたてば、その贅沢以上の富は万人にもたらされる。ゆえに贅沢を追い求めることは、その労力に対するコスパが悪い。もちろん贅沢して周りからチヤホヤされることが人生の目的な人はそれでも良いが、そのために払う犠牲は、あまりに割りが悪い。

それよりも、時の流れという「富」をありがたく受け取り、その中でできることを最大化することが、もっとも豊かな生き方のように思う。時の流れは僕らに「変化」というコストを迫るが、そのコストを払えば、それ以上の富を与えてくれる。過去に固執したり、新しいものを受け入れないことは、せっかくタダでもらえる富を、自ら拒否しているようなものだ。

前述した明治時代のお屋敷の1階には、小さなカフェが併設されていて、そこで軽食を食べることができる。

チーズケーキにアイスコーヒー。そしてクーラーの効いた部屋。今ではありふれたコーヒータイムであっても、100年間という「富」を考えれば、その貴重さ・ありがたさは倍増で、「素晴らしきかな人類の進歩」と心の中で呟いてしまう。

10年後は一体どのような富を手に入れ、どんな生活をしているか、今から楽しみである。

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