見出し画像

bibouroku#3

最近めっきり冷え込んだ。夏の延長にあったような日中の暑さから一気に解放されて、秋の涼しいを通り越した風が私の表面を掠めて深いところまで入り込もうとする。

毎回のように書いてしつこい気もするが、農家をはじめて5ヶ月。来月はお世話になっている農家が建てていた分校をリノベーションしたカフェを再スタートさせるつもりだ。コロナの影響やスタッフがいなくなってしまったのもあり、私自身もどうにかしたいと思いつつ実際に料理をしてくれる人が見つからないうちは、考えることしかできなかった。簡単な募集はかけたが、全くの無意味に、無力さを感じながらどこか「無力な」私を安堵した私が見ていた。

それでも農家さんの娘さんの繋がりでカフェで料理をしてくれると言う人が見つかった。それからは考えることも、動くことも、やることはてんこ盛りだが、朝5時に起きて講義を受けたり、カフェのことを考えながら自分のご飯は後の後の後回し。働きながらも無理やり頭を回して、18時に仕事が終わったらまた講義とカフェのことを考えていた。考えるために必要なものはある程度わかっている、と考えている時点でわかっていないと思うが、それなりに仮説を立てて、勉強して、周りも見て、そんな時間の使い方をしたかったのだと、充足に包まれる。

こんな投稿を書いている時点で自惚れている気はするが、備忘録であると言う免罪符をつけて、その時しか感じられないものはその時限りだからと思いながら、何をしていいのかいまいちわかっていないと自覚はある。

何をすればいいのか、何が必要なのか。それはおおよその検討はつく。調べれば出てくるし、周りの人はとても親切なので丁寧に教えてくれるだろう。手詰まりの時はそうしたい、けれども自分で100をやれてないうちはそれはできない。100のうちに含まれているのかどうかは、、再検討かもしれない。

考えるべきことはあるし、学んでいればそれの見当もおよそついてくる気はしているがどうにも脳みそに別のことが浮かんでその間を満たしている。クリアじゃないというか適切な余白がないというか。無駄かもしれないし無駄じゃないかもしれないものがふわふわしていてもどかしい時もある。

最近、本を買いすぎる。一冊読むと引用があって、それをまた読んでは引用があって、その繰り返しで本を買うことが増えた。あと本の背表紙や題名、そして本の姿を見たときに惹かれるものは中身も読まずに買っている。店中から探すもんだから財布の紐はもうちぎれかけ。しかも、詩集や文学作品、哲学からビジネス書など気になる本にあまりジャンルがない。タイプの女性はいないけど、個人個人に魅力は感じる、そんな選び方をしている気がする。自分で言うのも何だが例え方が若くて恥ずかしい。

これまで読書は自分の知らない情報や知らない世界、私では理解の及ばないものや思いもしなかった世界を知りたくて読んでいた。それは確かに面白いし、社会の潮流や史実の流れを知るなどして本でしか出会えないものがたくさんあった。

先日 シャルル=ボードレール全集を読んでいた時だった。

私はこういった世界のことは全く知らないし、ただボードレールの「悪の華」への好奇心だけで流れるままに全集を手に入れたが、内容は全くわからない。「そうなんだ〜」と思いながら読んでいて、好きな人からすると「もったいない!」と怒られそうな気もする。

だが初めて「本を通して私自身の内面との対話」が行われた。と言うか、あの感覚がそうなのかはわからないが本を読んでいるし内容にも関心はあるのに何故か私への語りかけが別のところで行われていった。心のより深いところへ自身での対話が開かれた、そんな感覚を味わって忘れない。不思議な体験だった。

その体験を知ってはもう戻れない。もう一度あれを体験したい。そう思わずにはいられない。

そう感じたら本を読む意識が変わった。情報や知識ではない、対話のツールとしての読書。本来の目的がどれかはわからないしそんなことはどうでもいい。ただそれ自体を味わいたい。

毎日忙しいが考え方を整理したり物事を進めたり、私ではまだまだ手に余るものが多いが、それを許してくれる周りの大人の方々には感謝だ。そのために私にできることは動くことだけだと、今日も言い聞かせて動く。

ほんとに、私の周りの人たちはすごいなあ。😭

ぜひサポートをお願いします!いただいたサポートの分はnoteに掲載する記事の内容に還元いたします!