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『1月15日の成人式』から考える・・・

成人の日

成人の日、といえばいまや1月上旬のどこかで・・・「どこか」としかいえないのは、自分がまだ成人の日といえば1月15日と決まっていた頃の人だったからです。

小さい頃、成人の日なんてぜんぜん遠いものの存在だった記憶があり、で、大学入って気づいたら20歳になっていて・・・えーーーー、成人じゃん、なんて思っていたり、そうこうしているうちに地獄のような就職活動で、人生初の屈辱的、いや、大きな挫折?みたいの味わったり、運よく就職させていただけてからも、必死に仕事をおぼえることで精いっぱいで・・・

「ここちがくなぁ~い!?」

いやいや、成人の日、というよりも、「1月15日」っていうだけで、過去のいろんなことが頭をよぎります。

成人の日は、中学時代の同級生と式典会場でたくさんおしゃべりしたり、夜は懇親会したり、まぁ考えてみたら、大学の後期試験間近だったはずなのに、よくぞ盛り上がっていたなぁって、、、スーツに袖を通して、ネクタイなんかも着用して、「なんかかっけーじゃん」って思った記憶があるけど、今考えたら、ぜったいに似合わない坊や姿丸出しだったんだろうな、、、とか、笑えるネタを思い出しますね。(あえて当時の写真は掲載しません)

※決して自分はこのようないでたちではありませんでしたが・・・

いまやアラフィフになり、ちょっとやそっとのダイエットでは体脂肪も落ちず、健康優良児の典型例だった自分が昨年の人間ドックでは「危険アラート寸前っすよ」って項目がいくつも出たり、、、

アラフィフになったからこそ、ようやく「自分」ってものに向き合うことができてきたのかなぁ、と思う今日この頃です。

むむむむむむむむ・・・

こんなことをふと頭をよぎるのも、1月15日っていう日が特別な意味をもつ日なんだろうな、と思うのです。そもそも成人式たるものがいつから始まったものなのか。。。って普通ブログとか書く人ならGoogleとかで調べたりするんでしょうけど、自分はしません。めんどいのでwww

はい、自分、とってもめんどくさがりさんなのです。。。許してね(^o^)

さてさて、成人式は良いとして、このアラフィフに至るまでの自分、どんなだったかなぁ。

よく言われてるんですかね?知らないけど、子供の頃は時間の経過がゆっくりだけど、大人(っていつから大人んなんだろ???)になったらそれが早い、あっという間だ、と。自分もそれは確かに感じる。

必死の時はあっという間、そうでないとダラダラ・・・

という一般論には反論したくなっちゃうんだなぁ^^

子供の頃って、今以上に精一杯、目の前のことに取り組んでいたし、精力的に遊んでたし、サンタさんが来るのを必死になって待ってたし。でも振り返ると、あの頃って、長かったなぁ~と思うんですよね

わ~い できたぁ~^^

じゃぁこの時間の体感ってどっからくるものなんだろう・・・

【実はいま、筆者の頭の中が完全に「停止」状態なので考えられません】

が、なんとなく思うのは、意外と楽しい時間ってあっという間、ではなく、楽しい時間こそ「その場」ではあっという間だけど、「過去から振り返ると」なが~く感じるのではないかなぁ、って。。。

仕事も楽しいこと、苦しいこといろいろあったけど(なぜ過去形???)苦しかったことは酒のつまみにはなるものの、楽しかった仕事のことはよ~く覚えている気がするんだよなぁ。しかも背脂マシマシラーメン食べたあとみたいに濃厚に。自信にもなるし。

今日、ひとつ言えるとしたら、「あんときはよかったよなぁ~」ってノスタルジックに浸るのもいいけど、その良かったのは一体なんでそう思えたのか、そのときどんな事実があって、その事実に自分はどう感じ(解釈し)たから「良かったなぁ」って思えたのか。それを掘り下げてみたら、これからの人生の再現性につながるお宝が眠ってるんじゃないかとおもんです。
じゃぁお宝ってなんなのよ???そこはみなさんがこれからどう生きていきたいと考えているのか?によってとらえ方が変わってくるのでここでは言及しないでおきます。

ひとつ言えるとすると、なにがしたいのか?使命は?志は?なんとなくこれ!って頭に浮かんでも、ココロを捉えていないから、すぐに撤回しちゃうんだよなってことと関係があるのかもしれない。
そうならないために、「あのときよかったことの事象・事実と内面の深堀り」これをすることで「自分らしさ」に気づけ、これだったらできるじゃんって希望をもつところまではいけるんだと思うんです。

そして最後の難関、これが「Do(行動)」。もうね、場はいくらでもあるからやっちゃいなよ、と個人的には思うなぁ。SNS、YouTube、ほかにもちらほら、書籍だってネットであれば簡単に発行できる。

確実に人類は進化し続けている。からこそ、こういった武器を使って「行動」していくことが大切なんだよな。ただね、持論だけど、在るべき姿、を描かずにDoしても、成果はでない。だって目的がないもん。在るべき姿がないから継続できないもん。だから「運」も味方してくれない。それでもDo することで、人生の目的に出会うことがあるかもしれないから、それは良いのかもしれないね。

自分なら、やみくもなDoは絶対にしない。蓄積した経験がばらばらで効率的な経験DBの分析が意味ないものとして出てきそうだから・・・やはり在るべきことってなにか、を内省するところから我慢強くスタートし見出し、で、生煮えでも良いからそれに向かってDoする方が、得られる価値の高さが全然違うと思うんだよな。

成人式ってことだけで、こんなん書いて意味あんのかな、と思ったけど、成人式を自分事として考えてみると、過去の自分の良さ、悪さ・今までの自分が得てきて栄光・反省・後悔・挫折、恥ずかしいし、めんどくさいけど、これらを丁寧に振り返ると、自分の在るべき姿はなにか?が見えてくるし、大きな木の幹のような軸として泰然自若でいられる自分も見つけることができると思いますよ。

泰然自若な気の根

もちろん、そういった「自分軸」を欲する方だけがやればよいだけなので、みんながみんなそれしないからどうとかいうこともありません。
さらにもうひとついうと、「既に自分はこれや!」ってものを見出し邁進している人も、それでどんどんDoしちゃえばよいと思ってます。

それができずに悩んでいるのなら、まずは内省し、自分軸を作る、いや見つける。
少なくとも幼少期~青年期の頃は、なにか回答を導き出すことで精いっぱいだったはず。その中にも、今の、そしてこれからの軸になるものがどこかに潜んでいたはずんだんだよね。ひとつの回答を導き出すときに、自分はどんなアプローチしたかな?そんとき、どんな「気持ち」になったかな、、、この気持ちに焦点を当てると、今後の人生生きやすくなる宝が眠っているかもしれないですね。。。

年のはじめだからこの1年素敵な年にするために抱負を作ろう、と言ってこんなこと記事にしたわけではなく、1月15日という日付がどうもひっかかり、するとあの頃はさぁ~、って会話があちこちでなされていたのかな、と想像しちゃったりしたので、もう一回成人式迎えるつもりで精いっぱい生ききる、今の今まで生かされてきているということにも、みんなが頭を切り替えるだけで、画一的でない、多種多様なワクワクするような未来が生まれるんじゃないかな、と思った次第でした。

ではまた!!!

次回の執筆時には、頭が停止→開始になっていることを祈って今日は寝ます・・・


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