見出し画像

ビジネスマンと商人(あきんど)

僕の仕事は、今のところ決められたタスクをいかに効率よく正確にこなすかだ。そんな業務を淡々とこなしていたときふと、“ビジネス“と“商売“って違うなと思った。

僕らはいまビジネス社会の真っ只中にいる。ある目的があって、事業が興って、ヒトやカネやモノが集まってその中で働いている。

資本主義社会とはそういうものだ。資本があるところに人が集まりモノが集まり事業を成す。そこでの純粋な目的は利潤追求であり、人間はその手段に過ぎない。そういうシステムだ。

僕はビジネスは音楽フェスに似ていると思う。同じ目的でたくさんのミュージシャンが集まってフェスが終わればまたもとの場所に戻る。僕は、欧米人のライフスタイルやビジネススタイルもこのようなイメージで捉えている。ミュージシャンにとってフェスが音楽活動そのものではないように仕事は生活そのものではなく、あくまでも生活の一部なのだ。家族、友人、趣味などの実生活から仕事が独立しているから割り切って働いているように思う。


一方、商売はどうだろうか。

僕は江戸時代を思い返す。町に行けばだんご屋、鍛冶屋、呉服屋、八百屋があり、農村では全員が農家だ。

そこでは生活と仕事が一体だった。生業というやつだ。八百屋なら朝起きて野菜を仕入れ、町で売ることが仕事であり生活であった。これが商売の文化だ。

ここはビジネスの感覚と大きく異なる点だと思う。「事業のビジネスマン」と「生業の商人(あきんど)」。

日本人はまだまだ商人なのかも知れない。日本人は仕事が生活そのものであるかのように生きている。それはむしろ日本では自然で、資本主義が導入されるまでは皆そうして生きてきたのだ。

これはビジネスマンと商人のどちらがよいかなどではなく、生計を立てるスタイルが日本と欧米で根本的に違っていたということだ。だから、今の働き方改革やワークライフバランス、プレミアムフライデーなどの表面的な労働問題改善活動が全くうまくいかないのだと思う。

この仕事に対する認識の違いは相当根深い。


仕事のスタイルが馴染まないのならどうにかいいとこどりで両立はできないものか。

日本では、八百屋の子は八百屋で農家の子は農家であった。その家に生まれたらその職業になるしかなかったし、その他の職業にはつけなかった。今の価値観からすれば職業選択の自由がなくてかわいそうだと思う。

が、逆に考えてみるとその職業しかやってないことによりその道のプロフェッショナルであったと考えられる。町中誰もが何かしらのプロフェッショナルだったのだ。これは注目すべきことである。

もし日本人が仕事=生活の生業スタイルで一人一人がプロフェッショナルになれるのならむしろそっちに振り切って今のビジネス社会に適応していくのはどうだろうか。

もちろん江戸時代は地縁と人情に大いに偏ったところがあったから今とは状況は全然違う。けれども、日本人が何百年とやってきた生業スタイルの方が今の日本人にも合っているのなら、わざわざ欧米の真似をしてスベるよりも生業の商人を世界レベルに鍛え上げる方が面白そうだ。

欧米の企業の業績や生産性を見て、日本オワタと言っている場合ではない。そりゃあっちのルールであっちのスタイルなら劣るに決まっている。こっちにはこっちのスタイルがある。

商人2.0


ここが突破点かも知れない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?