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やっぱりおっぱい 〜がんサバイバーの奮闘記〜 第4話

仕事やプライベートの出来事をこなす日々。入院するまではいつもと変わらない日常。ただ、心が疲れている。

12月16日、実家から状況してきた母親を迎えにいく。明日から入院ということで、私も母もあまり眠れなかった。

12月17日、入院手続きを済ませるために病院に向かう。久しぶりの山手線のラッシュに辟易する。こんな日に雨が降るんだよね。

麻酔科、外科の先生、看護師さんから手術や入院中の説明を受ける。リスクヘッジな内容の文書にサイン。手術前なのに、最悪のパターンを説明されると萎える。

午後、うとうとするものの、誰かしら出入りするので、ゆっくり眠れない。
母も暇を持て余し、散歩に出かけ、夜に父親と病院近くのホテルに宿泊。

21時消灯。ここからは水か経口補水液しか摂取できない。
明日は6時に起きて、9時から手術だ!

12月18日、緊張、不安、高揚感が入り混じってあまり眠れなかった。4時頃、トイレに起きてから全く眠れなかった。
6時以降は絶食なので、水を飲んでおく。こんな状態でもお腹は空くのよね。

日勤と夜勤の看護師の伝達がちゃんとなっていないのか、細かいことにイライラし始める。6時以降は水も飲んではいけないのに、7時に起こしにくるってどういうこと?!

オペに立ち会う看護師さんがきて、手術の確認をする。
「どこで、何の手術をしますか?」と当たり前の質問に、私はキョトンとしてしまった。
要は、認知症の人もいるので、自分が今から何の手術をするのかの確認なんだとか。

また、「手術中に音楽をかけるのですが、JPOPと洋楽とどちらがいいですか?」と聞かれる。
全身麻酔だから聞こえないと思ったけれど、麻酔から覚めた時に取り乱さないように、いつもと同じような感じでいて欲しいという配慮らしい。
「J P O Pで。ちなみにアーティストの指定はできるのですか」と聞いたが、「曲の指定はできません」ときっぱり言われてしまった。

私は前開きのブラジャー、紙パンツ、弾性ストキッングに、浴衣姿で歩いて手術室に向かう。
テレビのようにストレッチャーで手術室に入るイメージがあったけれど、至って健康体なので、両親に見送られ、手術室に入った。

そして、また、名前と何の手術をするのかを聞かれ、自分で手術台に横たわった。
手術室って神聖なところだと思っていたけれど、軽快な音楽のせいかとても明るい雰囲気でした。
そこで、朝、病室に質問をしにきた看護師さんが、「先ほど病室にいた男性は旦那さんですか。背が高くて、がっしりしていて素敵ですね」と。他の看護師さんが「そうなんですか。私も見てみたいわ」って素っ頓狂なことを話しかけられた。
どうみても、父親が私の夫に見えるわけないだろうと、私は思わずツッコミしようかと思ったほど。

後日、母にその話をすると、「じゃ、私は一体なんなのかしら?」と憮然とした表情をしていた。



次々といろんな器具をつけれら、足から点滴をして、「眠くなります」という麻酔科の先生の言葉とともに意識がなくなった。

私は、約4時間にわたり、両胸の部分切除手術を行った。

気がついたら、「手術終わりましたよ」と声をかけられるものの、ぼうっとしており、ストレッチャに乗せられ、エレベーターで移動し、自分のベットに寝たのはなんとなく覚えている。

口が乾くも水は飲めないので、母が水差しで口に水を含ませてくれ、吐き出す。母は帰るまで看病してくれた。
手術が終わったら実家に帰ると言っていた父が、もう1泊すると言い出した。私は母がいれば大丈夫だと思っていたのだが、翌朝私の顔を見て帰るという。その時は、なぜ父親がそういう行動をとったのかはわからなかった。

私は全身の痒みが酷かった。布が当たる皮膚が痒くて仕方がなかった。
酸素マスクや尿管は気にならないけれど、体全体が痒いので、アイスノンを3個使って冷やしながら、痒さとの戦いで、浅い眠りにつく。

12月19日、両親はホテルをチェックアウトして病室に来てくれた。父は私の様子を見て、実家に帰って行った。
私自身はまだ全身が痒い。お昼頃には点滴や管が全部外され、痒み止めを処方してもらい、全身に塗りまくる。

午後は、まず手すりにつかまりながら、フロアを歩いてみる。思っていたより体力が消耗しているのかなと思いつつ、最終的に売店まで自力で歩くことができた。だけど、それだけでぐったりしてしまった。
売店でチョコモナカジャンボを買い、母と二人で半分ずつ食べた。あのアイスは格別に美味しかったなぁ。

母親は私の家に泊まるため、ラッシュの時間を避けるように15時には病院から帰宅していった。

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