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彼女に振られたので山暮らししようかと思う。#5

使命という呪い

ヨッシャマンというヒーローじみた名前のせいだろうか。どうも私には「使命病」みたいなところがあった。
私は何のために生まれてきたのだろう?
私の役割とはなんなのだろうか?
私の使命とはいったい?
そんなことをずっと考えながら生きてきたような気がする。

「そのために私がいるのです」
世の中には、そんな風にはっきりと言える人達が一定数いる。
私はそれが心底羨ましかった。もう、失禁しそうなくらいに。

色々な事をやった。手当たり次第に。
転職王と呼ばれるほどに仕事を変え、趣味や勉強の守備範囲もゴールキーパーとして世界を狙えるレベルだと思う。
いつも新しいことに挑戦してるよね。
いつも何か勉強しているね。
そう言われてきた。
私の勘違いでなければ、尊敬のまなざしを受けることすらあったと思う。
しかしてその実態は、
ただの迷い人なのであった。
何をしてもしっくりこない。
あれでもない、これでもないと自分の使命を探し続けて、まもなく半世紀が過ぎようとしているではないか。

絶妙なタイミングで彼女に振られたものだ、と思う。
私は心底疲れていたのだ。それなのに疲れていることすら気付かないほどに麻痺をしていた。今思えばだけど。
失恋という名の津波のようなエネルギーが、しがみついていた色んなものを強制的に押し流した。

私は使命探しをあきらめた。
もういいじゃないか。使命がなければ生きていてはいけないわけでもない。使命のないやつはその辺の草でも食ってろ!と言われるわけでもない。
ただ、自分の幸せだけ考えて生きていってもいいじゃないか。そう思った。
「あきらめる事」は思っていたよりずっと怖かったけれど、ずっしりと私にのしかかっていた何かはいつのまにか消え去っていた。ほんのわずかな痕跡だけを残して。
すると不思議な事が起きた。
重石がなくなったことで、沈められていたあいつがプカリと浮いてきたのだ。そう、「山暮らししたい」という欲望が。

使命をあきらめたことで、やりたいことが見えてきた。もやが晴れたみたいに。
その欲望を叶えないことには、私は前に進めないのだと本能的に分かっていた。
もしかしたら、その先に本当の使命があるのかもしれないと思った。

しかし、今現在思うことは
そもそも「使命」を自分自身で縛り付けていたのではないかということだ。使命とは誰かの役に立つこと、世の中のためになること。そんな風に決めつけていたのではないだろうか?
使命とはもっと自由なものなのかもしれない。
命を使うと書いて使命だ。
自分が何に命を使うのか。何に人生を使いたいと思うか。
それがスーパー個人的な事であっても、自分が命を使いたいと思うもの。それはもう使命と言っていいだろう。
つまり、

私の使命は山暮らしすることである。

そう言ってしまって差し支えないと思われる。
私の人生だ。
私が何をどう定義したって、誰も怒鳴りこんできたりはしない。……よね?

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