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佐藤正午『ありのすさび』

ありのすさび(在りの遊び)

――あるにまかせて、特に気にせずにいること。生きているのに慣れて、なおざりにすること。

初めて出会った言葉だが、諳んじたくなる。

随筆集『ありのすさび』は全編通じて、居心地がいい作品だと思う。名著。


雨の降る感傷的な朝は、いつも彼の文章をなぞる。そして、肩の力を抜く。何度も、読み返している。まさに、今日も。

さて。

彼は野呂邦暢という小説家に出会って、物書きの道を進むことを決めたようだ。どのくらい野呂の文に惚れ込んでいたかというと、

作家の文体に惚れ込んでいるという意味で比喩を大げさに用いれば、僕は野呂邦暢とは同棲のあげくに結婚寸前まで行った仲なので、大概のことは判ってやれるつもりでいるのだが、…(295頁)

このくらいだ。この箇所は読んでいて少し笑った。佐藤正午にここまで言わせる小説家、大いに気になる。野呂邦暢への私淑の念は随筆のそこここに点在していて、読者を新たな世界へ導く。好きな人が読んでる本がたまらなく気になるように、好きな小説家が敬愛する小説家を気にならないわけがない。こうして、私の関心は芋づる式に野呂邦暢へと向かう。


佐藤正午の例に倣って、作家の文体に惚れ込んでいるという意味で比喩を大げさに用いれば、私は佐藤正午とは、山中湖畔で温かいお茶をすするためにドライブデートをしたまでの仲である。週末にふと思い立って、ちょっとそこまで出掛ける、そんな恋人のようにとても好きだということ。







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