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生きがいとは義務を「したい」と思うこと

生きがい。

それは、よぼよぼになった老年になってから探し始めるものでしょうか?

生きがいは、年齢に関わらず、人生を豊かにしてくれる感覚。もっと生々しくいうならば、指に触れる感触のようなものです。

先日読んでいた本にこんな一節がありました。

生きがいは、したいことと、義務が一致した時に感じられる。            生きがいについて 神谷美恵子

言い換えれば、「しなければならないこと」と、「したいこと」が同じ時、生きがいは生まれるということです。

例えば、子育てをしている両親は(殆どの場合)子育てをする義務がある。子供に離乳食を食べさせながら、「子育てをしたい」と思っている時、その2人は生きがいを感じます。

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仕事で苦情の電話を受けなければならない。そんな義務的な仕事を「この電話でなんとか収めたい!」と思った時、そのサラリーマンは生きがいを覚える。 ということでしょう。

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これだけを聞くと、そんな真摯な聖人君子にはなれない。そう思うかもしれません。確かに難しいときがあります。

私の子供も今「魔の二歳児、イヤイヤ期」です。言うことを聞いてくれず、反抗する力も蓄えている。私の力でも抱っこに一苦労。奥さんのため息を何度も聞きます。

ですが、この「義務」を「したい」と念じる力、思い込める力って腕力や、知力よりも大事、無敵だな、と思うのです。そして、大事なのは、まず義務があって、それをしたいと思うことです。この一方向の矢印です。双方向ではありません。

「したいことを仕事にするな」という言葉がありますよね。あれは、「したい」に「義務」を後付けしてしまうと、心が荒んだ時に回復できないからその経験をして挫折した先達(せんだち)が戒めているのではないか、と推察します。

例えば、絵を書くことが好きで、イラストレーターになった。けれど、毎日依頼される仕事は、自分が描きたいテーマとは限らない。描きたくない。そう悩んでも描かないと生きていけない。

「義務」で「描きたい」が上書きされていくほど、好きでなくなってしまう。そんなシーンがあるかもしれません。

その点、「義務」を「したい、好き」にできる心があれば、どんなことでも生きがいにできます。

明治の啓蒙思想家、福沢諭吉は「料理や風呂掃除すら学問でありえる」と著作の中で助言してくれました。起きること、朝ごはんをつくること、会社までの電車通勤も、「したいこと、好きなこと」にすることができます。受け身ではなく、主体的に。

もし先ほどのイラストレーターさんがまた絵を描きたいと思いたいなら、「したい」→「義務」→「やっぱり(もう一回)したい」というステップを踏む必要があるでしょう。

実は、好きなことを生きがいにするには、他のことをそうするよりも、人生の中では遠回りな道のりかもしれません。

私も、いつも生きがいをもって生活したい。

そのためにより確実な方法は、「したいことをする」だけでなく、「必ずしなければならないことを、したいと思う」ことなのです。



おまけ:写真は先週作ったドーナツです。これは逆の例。食べたいからつくったものですね。これを仕事で作るようになったら、義務のレールに一度載せなくてはいけませんね。


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