深夜の恐怖体験から「モノにする」感覚を理解する
昨晩、ベッドの中で恐ろしい体験をしました。
オチを言うと、最終的には奥さんに爆笑されることになります。が、その瞬間は心臓が止まるかと思ったほどです。
今回はこの体験から、
「人間関係や技、道具を、モノにできるのはどんなときだろうか」という話をします。
一見関係無さそうですが、大丈夫、何とかつながります。最後までおつきあいください。
重さで目を覚ましたのは、日が変わった直後、12時30分ころです。ふと、腹の上に何かが乗っている気配がしました。
1キロ、程度ではない。もっと重い何かです。しかも、就寝時にかけていた毛布よりも、温かい。おそらく生き物が乗っています。
ペットを飼っている家でしたら、飼い猫が布団に潜り込んできて・・・ということがありそうです。しかし、我が家ではそんな可愛猫も愛犬も飼っていません。
人ではない、ペットでもない。
しかし、お腹の上に、間違いなく生き物が乗っているのです。
恐る恐る、それに左手を伸ばしてみると、、、
大きい、暖かい!
しかも犬や猫のような毛のような肌触りでもありません。
蛇のような形と肌。しかしそれにしては柔らかい「何か」が動いている!
驚きと恐怖が口をついて出ました。
翌朝、妻に効くところによると、同時刻キッチンで音楽を聞いていたところ、ヘッドホンを突き抜けて叫び声が聞こえたそうです。
すぐさま私の様子を見にきそうなものですが、あまりに高い声だったため、私ではなく長女が寝ぼけたのだと思ったのだとか。
別室の様子を見にいったそうです。 薄情なものですね。
さて、叫んだ後。私が手元の照明をつけて見たものは何だったか。
もうお分かりでしょうか。
左手がつかんだモノ。
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それは右腕でした。
右腕を下に寝ていた結果、痺れて、感覚が無くなってしまった。その状態で目を覚ましたのでした。
恐怖の後にくる脱力感は、コロナワクチンの後の副反応のよう。本当に疲れました。。。
これだけですと、私のしょうもない話で終わってしまいます。が、大事なのはここからです。
どうして私は、自分の右腕を怖いと思ったのだろうか?
という疑問が頭に浮かびました。
すぐ思いつくのは、真っ暗で見えなかった。右腕だと目視できなかったという理由です。
しかしこれでは不十分です。試しに、布団の中で脚を触ってみればわかります。
体の一部をナンダコレハ!とは思いませんよね。
今回のきっかけは、能動的なきっかけではない。普段はありえない、受動的な問題だと思うのです。
つまり、右手が触れられたと感じなかったから。
左手のさわった感触の情報が、右手のさわられた情報で完結せず、何だかわからないモノに触れたと勘違いしたんですね。その情報不足が、怖いという感覚を生み出したという説明です。
恐怖は無知から生まれる
こう言ったのは19世紀の思想家エマーソンです。
今ならこの言葉がわかります。一番身近な、身体の一部でそのことを体験出来たのですから。
ではこの体験からどんな気づきを得たのでしょうか。
それは、発信と受信、2つの感覚の重要性です。
何かモノや人を理解するためには。働きかける側の理解だけでは足りない、その受け手側を感じる、もしくは想像する必要がある。
ということです。
左手がさわった、右手がさわられた。2つの情報がより深い理解を生み出すということです。
この両面思考は、身体の話から外に広げることもできそうです。
例えば仕事の場合。私が新しい仕事の話をする、県外の取引先に向けた新しいプロジェクトの提案です。
その協力先の部署と全く面識がない時。どんな反応をするのか想像できなければどうでしょうか。自分の働きかけの考えは自覚できたとしても、受け手の反応がわかりません。「伝わっているのかな?」と不安になります。場合によっては「怒り出すかもしれない」と怖くなるかもしれない。
反対に、相手が見知った同僚だった時には変わります。これから始まる仕事に対して、賛成するだろうか、意見をだすだろうか。想像が容易です。手足と違って、直接体感はできませんが、過去の記憶から想像することで不安や怖さを楽観的な考えに変えることができるでしょう。
モノでも同じことが言えます。
「このボタンを押したら何が起きるんだろう」(ドキドキ)と心配する電化製品よりも、「このボタンを押すと、使いたい機能が動く」と理解していたほうが良い。慣れ親しんで、使いこなせる状態です。
以上、痺れた右手が今年一番の恐怖体験であり、同時に「理解とはなんだろうか」考えるきっかけになりました。
技や道具をモノにする、同僚と相通ずるためのヒントです。
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