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僕の音楽体験 Vol.18 武満徹「ノーヴェンバー・ステップス」

僕の音楽体験 Vol.18 武満徹「ノーヴェンバー・ステップス」

しつこく大学時代の話です。
ベーシストとして、ミュージシャンとしての基礎を築くために音大の作曲科に進んでいたものの、ほとんどの時間は、ジャズを演奏するベーシストとその勉強のために時間を費やしていた日々。

もちろん、作曲そのものの勉強はとても刺激になり、勉強すればするほど音楽の深淵を覗き込むような気分になりました。
しかし、自分が作曲科になるというビジョンはあまり見えてこなかったのも事実です。

それを根底から覆したのは武満徹さんの「ノーヴェンバー・ステップス」という作品に出会ったことがきっかけでした。
それまでもラベル、ドビュッシー、バルトーク、ストランビンスキーなど、近現代の作曲家の作品には心を捉えられていましたが、どちらかというと遠い外国の特別なスーパーマンが作り上げた、人間を超越した作品のように感じられ、そのような作品は勉強しても書けるものではないと感じていました。

ある日、作曲家の資料室で色々とレコードを聞いていたところ、武満徹の名前を発見。

そういえば日本人で一番海外で評価されている人として名前は知っていました。
が、作品を聴く機会はなく、でもストラビンスキーが絶賛してから日本でも評価が高まったというエピソードが書き記してあり、これは聞いてみなくてはと思い、早速レコードをターンテーブルに乗せて針を落としました。

「ブワーん、ボワー、ヒュー」
といった幽玄な音がスピーカーから出てきてこれまで聞いたことのない音楽。
不協和音と呼ぶにはあまりにも美しい。しかし、旋律というものははっきりとは認識できない音響が続く。
さらになんと、琵琶が出てきた。
それに続いてヒュー、ヒョロヒョロ〜。尺八である
これもハッキリとした旋律というよりは、むしろ断片が集まった音響。

もう、聞いたことのない音世界に釘付けになりました。
これが「ノーヴェンバー・ステップス」でした。

西洋の音楽とは全然違う感性に貫かれた一つの風景。
それは、まさに、日本の庭園を想起させました。

ジャズを始めて漠然と抱いていた民族や人種というもの。
ジャズは明らかにアメリカの黒人の間で生まれた文化で、
日本人がそれをやっても良いのか、それはジャズなのか、
そんな事を思い始めていたところでした。

もちろんジャズは世界中で演奏されていて、ある程度共通の方法で演奏され
日本人だろうがアラビア人だろうが、とりあえず一緒に演奏できるという
20世紀が生み出した魔法のような音楽でもありました。
しかも即興で。
しかし、もちろん、そこには民族性や人種というものが色濃く反映されます。
それがまたジャズという音楽を一層ユニークなものにしています。

しかし、ここで日本人という壁にぶつかります。
日本人でありながら、日本古来の音楽などはほとんど触れる機会もなく育ち、
洋服を着て、ハンバーガーを食べ、テレビでアメリカのドラマ「600万ドルの男」を見る。
生活の中にある日本的なものは、味噌汁とか、畳とか、テレビゲーム。
音楽といえば、邦楽などに向き合う機会もあまりなく
せいぜい夏祭りで聞く盆踊りの「河内音頭」ぐらいでしょうか?
むしろ子供の頃に聞いていた童謡の方が日本的だったかもしれません。

とにかくルーツは日本人なのに、文化としてあまり誇れるものを持たないのが現代に生きる日本人なのか。
それを音楽に生かすことはできないのか、という事を考えたりしていました。

「ノーヴェンバー・ステップス」では、邦楽器というものを使いながらも
日本音階などは使用せず、むしろサウンドのイメージを持たせるにとどまり
西洋のオーケストラの方に見事に日本の感性というものが表現されている
そんな風に感じました。

もしかすると、その先の人生でアメリカの中でもっとそれを痛感する日が来るのを予感していたのかもしれません。
渡米後に、日本人の自分というものを直視しなければならない事がたくさんありました。

話は大学時代に戻ります。
「ノーヴェンバー・ステップス」を聞いてから武満徹さんという人をもっと知りたくなり著作やインタビュー、対談集などを読み漁りました。
それに流れている日本人ならではの感性に根ざしたものの見方。何も伝統芸を習ったり、和服を着て和食を食べるといった生活だけが日本という国を表弁するものではないということがわかってきました。

しかも武満さんはデューク・エリントンを師と仰ぎ、ビートルズをこよなく愛するということがわかって驚き。
ここで自分のいろんなものに対するものの見方が根本的に変化した気がします。

そして初めて、作曲家にもなりたいと思うようになりました。
それも現代音楽を本格的に書いてみたいと思うようになったのです。
西洋の楽器を使って日本の感性を表現してみたくなったのです。
もちろんベースを弾いてジャズを演奏している時の充実感も捨てがたい。
しかし、作曲も極めてみたい。
この間で揺れ動く心の葛藤がありました。
とても両立はしそうもない二つの世界。
とりあえず、大学院の受験はやってみようという事で実行。
大学院にも合格したのですが、
22歳という年齢はミュージシャンとして勝負に出るにも早すぎる年齢でもない。
悩みに悩んだ結果、ジャズミュージシャン一本で東京に出ることにしました。

その後、ジャズのバンドのためのオリジナルを描くという作業が、さらに違う作曲の世界を開くとはまだこの頃はよくわかっていなかったかもしれません。

とにかく「ノーヴェンバー・ステップス」に出会わなければ、その後のアメリカでのミュージシャンとしての自分の立ち位置や、バンドのためのオリジナルを書いたりアレンジしたりというものが不明瞭になっていた気がするのです。

人生は出会いで大きく変わります。
これは偶然か、はたまた必然か。
神秘を巡る旅はまだまだ続きます。

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