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見学記「分離派建築会100年 建築は芸術か?」

[この記事は2021年2月公開のものです]

京都国立近代美術館で開催されている展覧会「分離派建築会100年 建築は芸術か?」を見学した。わたしは美術館にはそうそうゆくこともなく、芸術についてはなんらの知識ももたず、建築に関してもまったくの門外漢である。それではなぜこの展覧会をみたのか。わたしはなにもしらないのに建築をみることがすきだ。それはおおげさにいえば、建築というふくざつに構成された空間、巨大な物質文化にかぎりない興味をかきたてられるからだとおもう。

分離派建築会は、1920年、東京帝国大学工学部建築学科の学生であった石本喜久治・瀧澤真弓・堀口捨己・森田慶一・矢田茂・山田守によって結成された。かれらは、過去の建築圏からの分離を宣言し、建築は芸術であると主張したのであった。日本初の建築運動であった。その後、大内秀一郎・蔵田周忠・山口文象がくわわって、1928年まで作品展や出版といった活動をつづけた。

分離派の建築を、わたしはしらぬうちに目にしていた。京大の楽友会館、農学部正門である。これらはどちらも森田慶一による1924年の作品である。楽友会館は、白壁とオレンジの瓦のスペインふうの様式をもった建築だが、あちこちに独創的な意匠をそなえている。瓦ぶきのまるいポーチ屋根は、上部がY字型にわかれたコンクリートの柱でささえられており、まるみをおびた縦長窓はリズミカルにならんでいる。たしかに楽友会館は特徴的な建築で、わたしもこんな建物が大学にのこっていることに感心したことはあったが、それが分離派とよばれる建築作品のひとつだとはしらなかった。

楽友会館

展覧会にならんだ数々の図面・模型・写真からは、分離派建築会として活動した建築家たちがあたらしく芸術的な建築をつくりあげようとする努力のあとをうかがいしることができた。わたしがいちばんひきつけられたのは、かれらの卒業設計の図面である。石本の「納骨堂」、堀口の「精神的な文明を来らしめんために集る人人の中心建築への試案」、瀧澤の「山岳倶楽部」、矢田の「職工長屋」、山田の「国際労働協会」、森田の「屠場」。どれも一筋縄ではゆかない。当時の大学の教官たちは、この卒業設計をみて頭をかかえたという。

なかでも印象にのこったのは「精神的な文明を来らしめんために集る人人の中心建築への試案」だった。まず、その題名からして異様である。そして、それにおとらず、建築としての規模のおおきさにも目をみはらされる。シンメトリーにかさなった屋根のつらなりの中央に巨大なドームがそびえたっている。こんなものをじっさいにつくる気だったのだろうか。

その後のかれらの作品をみると、デザインこそ独創的だが、いたって実用的な建築をつくっている。夢のような理想をめざした学生たちは、現実の制約のもとで妥協せざるをえなかったのか、あるいはみずからの理想のありかたに変化をみいだしたのだろうか。わたしは建築のことはまるでわからないが、建築家たちの作品の変遷をみていくなかで、そんなことをかんがえたのであった。

(初出 2021年2月21日 senmanben.com)


  • 「「分離派建築会」とは何か?」美術手帖 

  • 分離派建築博物館

  • 「分離派建築会100年 建築は芸術か?」京都国立近代美術館

  • 「京都大学楽友会館」文化遺産オンライン


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