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【百年ニュース】1921(大正10)11月14日(月) 日本初の女性外交官,山根敏子が誕生。父は畜産学者の山根甚信。のち津田英学塾を経て台北帝国大学卒。1950(昭和25)外交官試験に女性で初めて合格。1954(昭和29)国際連合日本代表部で米国駐在。将来を嘱望されるも1956(昭和31)飛行機墜落事故で死亡,享年34。

日本初の女性外交官,山根敏子が札幌市で誕生しました。父親は当時北海道帝国大学の助教授だった畜産学者山根甚信じんしん。母親は茂世と言いました。姉と兄との三人兄妹の末っ子として生まれました。兄は父甚信の研究を受け継ぎ、のちに鳥取大学農学部の教授となった山根乙彦です。

父山根甚信は北海道帝国大学から台北帝国大学に移り教授となりました。そのため一家は台湾に引っ越します。1934(昭和9)年4月、12歳で台北州立第一高等女学校に入学。1938(昭和13)年4月には津田英学塾に入学。1940(昭和15)年8月にはマニラで開催された日比学生会議に参加しました。1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると、12月26日には津田英語塾を繰上げ卒業となり台北にいる両親のもとに戻りました。

1942(昭和17)年4月に台北帝国大学文政学部文学科に入学し英文学を専攻、ゲーテの教育理論を研究しましたが、2年後の1944(昭和19)年9月15日には戦局悪化のためやはり繰上げ卒業となりました。戦後もしばらく台北にとどまり、しばらくは中華民国国民政府の官吏として台北大学図書館の主任をつとめていましたが、日本の外交官になることを目指し帰国します。

1950(昭和25)年3月には外交官領事官採用試験に合格、山根敏子は女性初の合格者となりました。外務事務官として半年間の研修所研修員を終えると、同年7月にはガリオア留学生(占領地域救済政府資金による留学生)として羽田空港を出発し、ニューヨーク市立大学クイーンズカレッジでオリエンテーションを受けたのち、バーモント大学で政治学を専攻、1951(昭和26)年6月1日に修了しました。なおガリオラとは、GARIOA (Government Appropriation for Relief in Occupied Area)、すなわち占領地域救済政府資金のことであり、米国政府が陸軍省の軍事予算のなかから支出した占領地の援助資金です。対日援助額は1946(昭和21)年度から1951(昭和26)年度までの累計で16億ドルほどでありました。

バーモント大学の課程修了ののち、外務省条約局国際協力課、続き国際協力局第一課へと配属となりました。なおこの国際協力第一課の課長として山根敏子の上司となったのは須山達夫でした。須山はのちノルウェー大使となり、1965(昭和40)年から1967(昭和42)年にかけて、ノーベル平和賞の候補者として吉田茂元首相を選考委員会に売り込んだ人物として知られています。(吉武信彦「ノーベル賞の国際政治学」『地域政策研究 第19巻第1号』高崎経済大学,2016 

翌1952(昭和27)年9月27日に在ニューヨーク国際連合日本政府代表随員を命ぜられました。山根敏子は国連を舞台に卓越した英語力を駆使し、多くの折衝で活躍するとともに、日本人初の女性外交官として各国から注目されました。1955(昭和30)年6月10日にはサンフランシスコでの国連十周年記念特別総会に澤田廉三(国際連合日本政府代表部部長)とともに出席しました。なお翌1956(昭和31)年12月18日の日本の国連加盟を控え、この頃国際連合日本政府代表部特命全権大使として加瀬俊一としかず(小加瀬/1925入省)がニューヨークに赴任しました。

1956(昭和31)年7月25日付で帰朝を命ぜられ、8月の暑い日に加瀬大使のスカーズデール(Scarsdale)の自宅で送別会が開かれました。リンゴの青い実がたわわに実った広い庭でバーベキューをしました。そのとき青いリンゴがひとつポツンと落ち、帰任する山根敏子はその落ちたリンゴを引用した別れのスピーチをしましたが、これが当時同僚で送別会にも出席していた青木襄児に気になる悪い予感を与えたと言います。

山根敏子は日本に帰任するため8月29日にカナディアン・パシフィック航空307便に搭乗しバンクーバー空港を出発しました。その飛行機が事故のためアラスカ州コールドベイ沖の墜落したとの報道があり、日本の国連代表部から若手の小木曽本雄書記官(のちの国連大使)が現地に急行します。東洋人の女性が2名乗っており、1名は死亡、1名は生存という事前情報でしたが、生存していたのは中国人女性と判明、山根敏子の死亡が確認されました。享年は34歳でした。

両親の山根甚信、茂世は遭難現場まで行き花束と線香で娘の冥福を祈ったのち、現地で遺骨を引き取って帰国しました。

なお父親の畜産学者、山根甚信は鳥取県の出身、1889(明治22)年1月20日生まれです。東北帝国大学農科大学(旧札幌農学校)を卒業し、北海道帝国大学助教授をつとめたあと、台北帝国大学教授などを経て、1949(昭和24)年に広島大学教授となり、1954(昭和29)年に開学した広島農業短期大学(現在の広島県立大学)の初代学長となりました。

1968(昭和43)年に山根甚信は、無念の墜落死を遂げた娘敏子のために『甦る魂』を出版しました。まえがきには下記のように書かれています。

昭和三十一年八月三十日は、私と妻にとって最も悲しい日でありました。アラスカにおける航空事故のため、愛する娘・敏子が私たちの掌中から奪い去られた日であったからです。この不運に私達はいっとき、奈落のそこに突き落とされた思いがいたしました。しかしその後国の内外から多くの方々の友情と善意に慰められ、かつ励まされて、寂しい苦難の歳月を堪え忍ぶことができました。わけても『山根奨学基金』の設置によって、私たちは、百倍の勇気を与えられ、漸く世の中が明るくなりました。今では敏子の肉体は消え去りましたけれども、その魂は滅びることなく、より若い世代に移行しつつあると思うのであります。そしてひとりの敏子ではなくたくさんの敏子となって甦りつつあると考えるようになりました。

昭和三十二年のクリスマスにアメリカのバーモント在住のスコット牧師から、彼の地の教会で愛唱されているというある挽歌が贈られてきました。それには作者は誰か知らないが、敏子によく当てはまると思うのでという添え書きがしてありました。

From life to she passed, no death is here;
This is a step of progress, not the end.
I hear her saying with a voice of cheer,
Tis of life's nature to ascend.

※米国の詩人ジェイムズ・ウィットコム・ライリー(James Whitcomb Riley)の詞(引用者註)

山根敏子の死後、外務省で上司であった澤田廉三、須山達夫、後宮虎郎うしろく とらお、北原秀雄らが中心となって、1960(昭和35)に山根奨学基金が設立されました。藤山愛一郎外務大臣、鹿島守之助参議院議員(鹿島建設会長)のほか、日米協会長ジョン・D・ロックフェラー3世などから寄付金が集まり、毎年の女子学生に返済不要の奨学金を支給するようになりました。この基金は現在でも津田塾大学内で一般財団法人山根奨学基金として運営されています。

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