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【百年ニュース】1921(大正10)5月6日(金) 川上俊彦が初代ポーランド公使としてワルシャワに着任。川上は新潟県村上市出身。東京外国語学校ロシア語学科を出て外務省入省。日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め,ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺に遭遇。

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川上俊彦が初代ポーランド公使としてワルシャワに着任しました。川上は新潟県村上市出身。新潟師範学校,東京外国語学校ロシア語学科,外務省入省後はロシア関連の役職を歴任。日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め,ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺に遭遇したことで知られています。

川上俊彦は新潟村上本町飯野に村上藩士150石の川上泉太郎の長男として出生。藩校「克従館」に学び、1884(明治17)東京外語大ロシア語科卒。 

外務省に入省、貿易事務官としてウラジオストク駐在中、日露戦争勃発で避難するロシア在留邦人の脱出を指揮。1905(明治38)1月旅順陥落時の乃木・ステッセル会談のロシア語通訳を務める。

1909(明治42)10月ハルビン総領事として伊藤博文をハルビン駅頭で迎え、伊藤暗殺の際、流れ弾にあたり重傷を負った。

 ロシア革命時に混乱するロシアを視察し、革命の状況を日本に連絡。シベリア出兵後のソ連との基本条約締結に向けた交渉の中で、後藤新平に命ぜられソ連代表ヨッフェとの予備交渉にあたった。

ロシア後方かく乱謀略に従事してポーランド独立運動の指導者と接触し、その縁でポーランド独立後の1921(大正10)初代公使に赴任。 その間ハルビン・モスクワ各総領事、また満鉄理事、ハルビン学院の創立への尽力などを歴任。

その後、1927(昭和2)北樺太鉱業設立とともに社長に就任、のち日魯漁業社長も兼ねた。

 明治から昭和にかけての日露・日ソ関係にかかわった、もっとも重要な外交官の一人である。娘は松本憲法草案で有名な松本烝治の息子に嫁いだ。

<コンサイス日本人名事典>

水師営2

川上俊彦

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